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谷嵐 久(たにあらし ひさし、1952年4月16日 - 2010年10月19日〔山口久氏死去 プロ野球横浜の山口俊投手の父 - 47NEWS(よんななニュース) 〕)は、1970年代後半に活躍した大相撲力士である。大分県中津市出身(出生地は福岡県北九州市)。時津風部屋に所属していた。本名は山口 久(やまぐち ひさし)。現役時代の体格は181cm、128kg。最高位は西前頭4枚目(1979年3月場所)。得意手は突き、押し、寄り。 次男は、プロ野球・横浜DeNAベイスターズ投手の山口俊。 == 来歴・人物 == 大分県立中津工業高校に入学してから相撲を始め、3年生の時には全国大会に出場し上位入賞するなど活躍した。高校卒業直前に、知人の紹介で時津風部屋へ入門。1971年1月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同一の「山口」。 序ノ口に付いた翌3月場所で7勝0敗と好成績を残して序ノ口優勝を果たすなど、入門直後から周囲の期待が高かった。幕下までは順調に番付を上げていったものの、幕下上位で長く苦労し、十両に昇進したのは初土俵からおよそ6年4ヵ月後の1977年5月場所でのことだった。その間、四股名を同部屋の先輩・北葉山に因んだ「若北葉」に改めていたことがある(しばらくしてから、元の「山口」へ再改名)。 十両では常に好成績を残し、1978年5月場所で新入幕を果たした。これを機に「山口」から、郷里の大先輩である谷嵐市蔵に肖った「谷嵐」へ改名した。 立ち合い突っ張ってから、右四つを取って強引に寄り切るといった取り口で将来を嘱望されたが、押し相撲とも四つ相撲とも言えぬ相撲であったためなかなか幕内で勝ち越すことができなかった。 3度目の入幕を果たした1979年1月場所では、初日から7連勝で最終的に10勝5敗と幕内通算3場所目にして初めての勝ち越しを決めた。しかし、結果的に幕内での勝ち越しは、この1場所のみで終わることとなる。自己最高位の西前頭4枚目で迎えた翌3月場所では、13日目を終わって7勝6敗と白星先行していたもののそこから連敗し、7勝8敗と惜しくも勝ち越しを逸した。翌場所は、7勝7敗の五分で千秋楽を迎えるも、敗れて7勝8敗と負け越し。 それ以降は怪我もあって低迷し、同年9月場所を最後に、2度と幕内へ返り咲くことは無かった。 以後は十両においても一度も勝ち越せず、1980年3月場所後、幕下へ陥落。そして同場所限りで、「谷嵐」の四股名も返上して本名の「山口」に戻した。 その後は、1981年9月場所の1場所のみ十両に復帰したが、本来の相撲は全く取ることができずに以降はずっと幕下に居座った。 1982年11月場所後、30歳で廃業。断髪式は、元小結・双津竜や同じ九州出身の元前頭・牧本と合同で行った。 廃業後は故郷に戻り、相撲茶屋「谷嵐(なりや)」を経営していた。 2010年10月19日、肝臓癌のため大分市内の病院で逝去。58歳没〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「谷嵐久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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