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谷川 昇(たにがわ のぼる、1896年5月27日 - 1955年2月28日)は、日本の内務官僚、元政治家(衆議院議員)。広島カープ設立に尽力した。正五位勲四等受章。 == 来歴・人物 == 広島県西志和村(現・東広島市志和町)出身。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)で鈴木剛や田部武雄の兄・謙二と同学で親友であった。野津謙は年は違うが同期で〔野津の中学入学は1911年。〕、谷川は蹴球部(サッカー部)だったという〔『栄光の足跡 広島サッカー85年史』 「広島サッカー85年史編纂委員会」 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、23頁〕。両親は早くに移民としてアメリカに渡り、カリフォルニア州・サクラメントで百貨店を経営。この頃のカリフォルニアは、まだ暑くて荒涼した住みにくい土地であったが、父親は荒地開拓の日本人リーダーとして信望を集めていた。昇も中学卒業後、父に従ってアメリカに渡りイリノイ大学政治経済学科に入学。卒業後、ハーバード大学大学院自治行政(都市行政)学専攻を修了した。 関東大震災復興のため、永田秀次郎東京市長が招いたハーバード大学の師匠・ジェームズ・ビヤード博士と共に帰国。1924年内務省に入省し、東京市役所に入る。主事、都市計画課長、市民局長、戦時生活局長、東京防衛局長などを歴任〔東京都公文書館だより-Tokyo Metropolitan Archives News 第12号(2008.3) 〕。終戦後の1945年10月、山梨県知事に就任。翌1946年には、幣原喜重郎内閣の内務省警保局のトップ・警保局長に就任。警保局長は現在の警察庁長官に相当する要職で、高文出身でない人物がこの地位に就いたのは異例であった。 1947年に退官し、同年4月の第23回衆議院議員総選挙に広島2区から立候補しトップ当選。日本自由党幹事長に内定していた。しかし、僅か二ヶ月で戦時中の大政翼賛会奉職のため公職追放となる。1952年再び第25回衆議院議員総選挙に広島2区から出馬し当選、自由党政調副会長に就任。しかし、またも半年でバカヤロー解散に遭い、次の第26回衆議院議員総選挙では、池田勇人や中川俊思(中川秀直の岳父)らに敗れ次点となり落選。1955年第27回衆議院議員総選挙では、池田や中川、松本俊一らに次いで当選を果たすが、当選確実の報を聞いたその日に脳出血のため急逝、58歳だった。政治家としては度重なる不遇のため、悲劇の政治家ともいわれた。 File:Supporters of Tanigawa Noboru.JPG|谷川の訃報に悲嘆にくれ、提灯を燃やす支援者 File:Maeda Einosuke.jpg|谷川の死により繰り上げ当選した社会党右派の前田栄之助。 「政界の粛正 政治の明朗化などは全く同感であって 氏の遺志も体して二人前の意気で働く」と語った。 File:The funeral of Tanigawa Noboru.JPG|谷川の葬儀 三木派・河本派・高村派の重鎮だった谷川和穂は長男。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「谷川昇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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