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谷田部藩(やたべはん)は、常陸国(現在の茨城県つくば市谷田部)に存在した藩。藩庁は谷田部陣屋。 == 藩史 == 藩祖は、細川幽斎の次男・興元である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、兄・忠興と不仲になって出奔する。慶長15年(1610年)7月27日、将軍・徳川秀忠より下野国芳賀郡茂木1万石を与えられて諸侯に列した(茂木藩の立藩)。真偽のほどは定かでないが、幕府は当初豊後国鶴崎10万石〔鶴崎は忠興の後を継いだ細川忠利が熊本藩を与えられた時に、熊本藩領として肥後細川氏の本家に与えられている。〕を検討したものの、忠興の「興元は10万石の器にあらず」との反対によってわずか1万石に留まったため、細川宗家と不仲になったと伝えられているが、第2代藩主興昌の代には、熊本藩主の子息が鷹狩りの際に谷田部を訪れて歓待されている。 その後、興元は大坂の役における戦功により、元和2年(1616年)6月26日に常陸国筑波郡・河内郡6,200石を加増され、陣屋を谷田部に移した。土地は痩せて凶作が多かったため財政難が慢性化し、頻繁に援助した熊本藩では貸金は返ってこないものと諦めていた。 なお藩庁を茂木から谷田部に移転して以降も茂木の陣屋は温存され、藩主及び藩主一族が住することもあり、寛政重修諸家譜の7代目藩主・興徳の記載に「茂木あるいは谷田部に住し」とあり、廃嫡となった興誠も茂木にて死去したとある。 1840年の藩士数は、江戸屋敷58人、茂木陣屋47人、谷田部陣屋43人の計148人。この他、奥女中や足軽、門番人その他となっている。 第3代藩主・興隆の代である万治3年(1660年)、検地が行なわれて藩政の基礎は固められたが、享保年間から、大風雨による洪水や飢饉、旱魃や熱病と天災による凶作が続き、さらに江戸の藩邸が焼失したこともあって財政は急速に悪化する。天保5年(1834年)の負債額は、12万7,000両、米2,600俵という巨額にのぼっている。生産量も激減し、享保8年には1万3,000人を超えた人口も、天保6年(1835年)には6,702人と半減し、耕地の4割が荒地と化した。 文化5年(1808年)、文化6年(1809年)、天保4年(1833年)、天保7年(1836年)には年貢減免を求める百姓一揆が勃発している。このような藩財政の悪化に対し、第7代藩主・興徳は二宮尊徳の報徳仕法を手本とし、藩医・中村勧農衛を登用して財政再建を主とする藩政改革を行なった。しかし、藩内部で仕法の反対を求める保守派の動きや、興徳がわずか3年後に死去した上に晩年は冷害に見舞われたこともあり、凶作と米価上昇に改革は挫折する。それでも、家老に就任した中村による耕地回復活動は実を結び、耕地面積は回復した〔藤野保・木村礎・村上直編 『藩史大事典 第2巻 関東編』 雄山閣 1988年 ISBN 4-639-10036-1 p.197〕。借金も豪商釜屋七兵衛からの借金2,000両を放棄させるなどの強引な手法と、年貢収入の回復、熊本藩からの財政援助によってようやく減少に転じた。中村勧農衛は間引きを防ぐため「さとし草」を著し、農業人口の維持に努めようとした。だが幕末期に至ると、凶作が相次いで一揆が頻発する一方、幕府政治に不満が高まって世直し一揆が発生した。 最後の藩主となった興貫は、戊辰戦争では新政府に与して会津若松城攻めに藩兵を派遣する。翌年の版籍奉還では藩知事に就任。明治4年(1871年)2月8日、陣屋を再度茂木に移した。同年7月の廃藩置県ののち、第1次府県統合で谷田部の茂木藩領は新治県となり、のち茨城県に編入された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「谷田部藩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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