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谷 身知子(たに みちこ、1951年3月10日 - )は、日本の女優である〔キネ旬, p.434.〕〔''谷身知子''、''jlogos.com'', エア、2014年11月7日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年11月7日閲覧。〕〔年鑑, p.137-139, 153, 170.〕〔キネ旬, p.4, 17, 43, 60, 68, 99, 107.〕〔''谷身知子''・''邦かほり''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年11月7日閲覧。〕〔日本映画情報システム 検索結果、文化庁、2014年11月7日閲覧。〕〔''谷身知子''、allcinema, 2014年11月7日閲覧。〕〔''谷身知子''・''邦かほり''、日本映画データベース、2014年11月7日閲覧。〕〔''谷身知子''、日活、2014年11月7日閲覧。〕〔大蔵映画黎明期プログラムリスト 、''PINK HOLIC'', トライワークス、2014年11月7日閲覧。〕。結婚前の本名は小谷 明子(こたに あきこ)、デビュー時の芸名は邦 かほり(くに かおり)であった〔〔〔〔〔。 == 人物・来歴 == === 姉妹の女優 === 1951年(昭和26年)3月10日、東京都世田谷区烏山町(現在の同区烏山)に生まれる〔〔〔キネ旬, p.436.〕〔キネ旬, p.248.〕。父は戦前に日活大将軍撮影所の小道具係であり、戦後も東映東京撮影所や連合映画撮影所で装飾部として活動した小谷春勇〔〔石割, p.76.〕(小谷春男〔、2014年11月7日閲覧。〕〔、2014年11月7日閲覧。〕〔椿姫 、日活、2014年11月7日閲覧。〕)、2歳上の姉が女優からのちに映画監督に転身した珠瑠美(1949年 - )である〔〔〔。 1966年(昭和41年)4月、青葉学園高等学校(1988年廃止)に進学する〔〔。姉の珠瑠美は、すでに前年の1965年(昭和40年)9月に『裸女山脈』(監督川合茂貴)に主演して映画界にデビューしていた〔。『日本映画俳優全集・女優編』等には、高校卒業後に家事手伝いをしていたところ、1970年(昭和45年)にスカウトされて邦 かほりの名でデビューした旨の記述があるが〔〔、東京国立近代美術館フィルムセンターの所蔵作品詳細によれば、同校に在学中の1968年(昭和43年)に公開された美矢かほるの主演作『人生㊙劇場 壺あらそい』(監督小川欽也)に出演した旨、「邦かほり」名義でのクレジットがある〔。1969年(昭和44年)3月、同校を卒業、同年5月には姉の珠瑠美が主演した『情事のあと始末』(監督酒匂真直)、同年6月には同じく『競艶おんな極道 色道二十八人衆』(監督武田有生)、同年8月には二条朱美主演の『女肉 狂い責め』(監督武田有生)、辰巳典子主演の『女の舌』(監督酒匂真直)に「邦かほり」の名で出演、 同月、『濡れた秘事 女高生体験記』(監督武田有生)で主演を果たしている〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、邦かほりあるいは谷身知子についての言及はない〔田中, p.85-86.〕。1966年デビューの一星ケミ(1947年 - )や祝真理(1948年 - )、1967年(昭和42年)デビューの辰巳典子(1947年 - )や白川和子(1947年 - )、谷ナオミ(1948年 - )、青山リマ(1949年 - )、真湖道代(1949年 - )、あるいは同じ1968年デビューのハニー・レーヌ(1952年 - )や芦川絵里(1949年 - )ら同様、戦後生まれの第二世代に属する。 「邦かほり」名義で出演したのは、1970年3月に公開された『残酷色情絵図』(監督武田有生)までであり、同年5月に公開された『肉体ハイジャック 殺しの前の快楽』(監督梅沢薫)をもって、谷 身知子に改名した〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。同年、珠瑠美とともに、姉妹で木俣堯喬のプロダクション鷹専属になる〔〔。水城リカ(1943年 - )、あるいは芦川絵里らとともに木俣堯喬の門下生として育てられた〔〔〔キネ旬, p.140.〕。姉と多く共演作したが、当時、同社は若松プロダクションと提携しており、同年8月に公開された足立正生の監督作『叛女・夢幻地獄』では、脚本家・映画監督の大和屋竺とともに主演している〔〔〔〔〔〔〔。1971年(昭和46年)11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、当初、谷がこれに出演することはなかった〔〔〔〔〔〔〔〔〔。1972年(昭和47年)5月10日に公開されたプリマ企画製作による『私のよわいとこ?』(監督秋山駿)に主演、これが谷が出演した映画の中で、唯一の日活配給作品である〔〔〔〔〔〔〔〔〔。同年中に製作され、1973年(昭和48年)1月に公開された『日本性風俗史 淫ら絵巻』(監督木俣堯喬・和泉聖治)が最後の出演作になった〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。 満27歳になる1978年(昭和53年)、アメリカ人のリチャード・キンティンと結婚、アメリカに移住する〔。キンティンとの間に3子がいる〔。その後、姉の珠瑠美は木俣堯喬と結婚、プロダクション鷹の取締役に就任している〔。以降の消息は知られておらず、存命であれば2014年(平成26年)には満63歳である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「谷身知子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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