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豆千代(まめちよ、1912年1月2日 - 2004年3月22日)は昭和期の芸者、歌手。本名は福田八重子。 ==経歴== 明治45年(1912年)、岐阜県武儀郡富之保村(現・関市)で生まれる。芸人にするために幼少から三味線・長唄を仕込まれ、小学校へ入学後は日舞・義太夫・常盤津などの芸事を習う。9歳で少女歌舞伎団の団員として全国への巡業に赴く。大正13年(1924年)、13歳の時に地元の芸者置屋に入り花柳界入り。その後芸妓になる。 芸者の小唄勝太郎の唄う「島の娘」のヒットによって旋風を起こした鶯歌手(芸者歌手)ブームによって、二匹目の泥鰌を狙ったコロムビアレコードが白羽の矢を立てたのが、美貌と美声で評判だった芸妓の豆千代であった。生来、芸事を好んだ豆千代は、地元の応援もあって昭和8年(1933年)にコロムビア専属となり「恋はひとすじ」で歌手デビュー。 翌年には、当時の人気歌手・松平晃と歌った「曠野を行く」がヒット。さらに昭和10年(1935年)には、同じくデュエットを組んだ松平晃との共演による「夕日は落ちて」が、折りしも満州国建国による大陸ブームの波に乗り大ヒット。時代に後押しされスター歌手の仲間入りを果たす。 一躍、流行歌手となってからもレコーディングのたびに岐阜から汽車で上京し、独り公園で熱心に歌を稽古するという日々を続けた。「廻り燈篭」「貫一お宮」「浮名三味線(お初の唄)」と地道にヒットを続け、昭和17年(1942年)には「狸御殿シリーズ」の大映映画「歌う狸御殿」に出演し、高山広子の継母役を演じた。この映画で豆千代に目を付けた大映の永田雅一は、映画界入りを勧めるが、「歌で食べられなくなったらお世話になります」ときっぱりと出演を断ったという逸話が残っている。 戦後、歌手としてはレコード会社に所属しなかったが、映画出演やステージに活躍する一方、とんかつ屋を経営するなど多才な面を見せた。昭和26年(1951年)、レコード製造を再開したタイヘイレコードと契約し専属となる。海外資本の参加により、社名がマーキュリーレコードとなっても活躍し、「そんなこと知らない」「雨の明石町」などがヒットした。 昭和40年代の懐メロブームにも時折登場し、「夕日は落ちて」や「浮名三味線」などを東京12チャンネルの音楽番組「なつかしの歌声」で披露している。その頃、豆千代の歌手生活の集大成とも言うべきLPアルバム「明治一代女」が発売された。また、古巣のコロムビアで故郷の岐阜の民謡や、端唄、小唄、明治大正の流行小唄などを盛んにレコーディングした。晩年は地元岐阜で歌手としても活動し、平成に入ってからもNHKラジオ放送「歌謡大全集」に出演したが、平成16年(2004年)3月22日に93歳で没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豆千代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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