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豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)は江戸時代初期に伊勢国度会郡継橋郷の豊受太神宮(豊受宮、伊勢神宮外宮)に隣接する豊宮崎の地(現三重県伊勢市岡本3丁目)に開設された文庫。単に宮崎文庫(みやざきぶんこ)とも称した。 古典籍を収蔵する文庫(書庫)の外に講堂も併置されて主に外宮祠官(多く度会氏)の子弟教育機関として神都(伊勢地域、現伊勢市一帯)の文教の中心となり、金沢文庫(武蔵国)、足利文庫(足利学校、下野国)と並び称されることも行われた〔『圖書館雜誌』第12号雜報「宮崎文庫の移動」(日本圖書館協會刊、明治44年。西川元泰「神宮文庫」(『神宮・明治百年史』上巻、神宮司庁刊、昭和43年、所収)所引)。〕〔下述する文庫落成を寿いだ永田善斎「宮崎文庫記」や林道春「宮崎文庫之記」序、林靖「勢州度会宮崎文庫記」(いずれも弘正前掲書所引)でも文庫創設の意義を金沢や足利のそれに比している。〕。明治維新に際して廃庫とされたが、日本図書館史上の貴重な存在であり、跡地は「旧豊宮崎文庫」として国の史跡に指定されている(以下、便宜上書庫としての本来の文庫は「書庫」と記し、「文庫」は教育機関を指すものとする)。 == 沿革前編 == === 開庫以前 === 伊勢神宮における書庫の歴史は古く、皇太神宮(伊勢神宮内宮)には文殿(ぶんでん)が奈良時代(西教暦8世紀。下皆效此)から存し、外宮には鎌倉時代(13世紀)以前から神庫(しんこ)があって、共に内外両宮に関する図書記録文書の類を収蔵していたほか〔元泰前掲論考。〕、鎌倉時代末から南北朝時代(14世紀)にかけて活躍した内宮禰宜の荒木田経延が宇治の岡田村(現伊勢市宇治今在家町一帯)に在した宿所に岡田文庫を構えていたが〔この岡田文庫が林崎文庫の前身の一とされたという(元泰前掲論考)。〕、室町時代には神宮の勢力も衰微し、殊に文明・延徳年間(15世紀末)に起きた宇治会合(内宮の神役人(下級祠官及び師職)を中心とした地縁的自治組織)と山田三方(外宮神役人を中心とする同様の組織)との闘争、いわゆる宇治山田合戦によって両宮共に兵火に罹るとその蔵書も焼失ないし散逸し、一に古記録悉滅という状態にまで至ったと伝えられ〔佐古一冽「度会延佳と豊宮崎文庫」(『神道大系月報』27、神道大系編纂会刊、昭和57年所収)。〕、江戸時代初め(17世紀初)には「古代よりの神書旧記は他国に分散し、或は古家に朽損」する有様で神宮祠官といえども学問に勉める者もなかったという〔出口延佳(カ)『豊受太神宮祠官賞爵沙汰文』巻下所引万治2年(1659)7月3日付幕府寺社奉行宛「恐れ乍ら返答申上る条々」。『神道大系』論説編7(神道大系編纂会刊、昭和57年)に拠る。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊宮崎文庫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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