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豊嶋朝経 : ミニ英和和英辞書
豊嶋朝経[けい, たていと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning
: [けい, たていと]
 (n) (weaving) warp

豊嶋朝経 ( リダイレクト:豊島朝経 ) : ウィキペディア日本語版
豊島朝経[としま ともつね]
豊島 朝経(としま ともつね、生年不詳-建仁3年10月15日1203年11月20日))は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。祖父(または父)は豊島清元(清光)。父(または子)は豊島有経。子(または孫)は豊島時光。官位は右馬允。通称は太郎。
治承4年(1180年)8月、平氏打倒の挙兵をした源頼朝石橋山の戦い大庭景親ら平氏方に敗れ、安房国へ逃れた。9月3日、頼朝は源氏恩顧の武士である豊島氏当主の清元とその子葛西清重に海路をもって安房国へ参じるよう命じ、また在京中だった朝経には、その妻女に綿衣を進呈するように命じている。
葛西清重は優れた武将で、源範頼に従軍して武功を立て、奥州合戦で活躍して奥州総奉行に任ぜられ、葛西氏は奥州の大族となっている。
建仁元年(1201年)7月、朝経は土佐守護職に任じられた。北条時政の名の書状があり、同国内の深淵郷と香宗我部郷の地頭職に任じられた中原秋通に現地の住民が従わないため、朝経へ地頭職を強制執行するよう命じられている。建仁3年(1203年)8月に土佐守護を三浦義村と交代。
同年10月10日、比叡山衆徒が八王子山に城砦を構築して立て籠もり騒擾を起こす事態となった。朝経は同族(弟?)の葛西重元とともに官軍に加わり、討伐に向かい比叡山衆徒は蹴散らされたが、官軍300人が戦死し、佐々木重綱および、朝経、重元は討ち死にした。
朝経は江戸時代旗本豊島泰盈が作成した「金輪寺本豊島家系図」「泰盈本豊島家系図」では清元の長子とされ彼の系統が豊島氏の嫡流となるが、一族の旗本宮城氏の「豊島宮城系図」ではその名が現れない(こちらは葛西清重の系統が嫡流になっている)。
系図で子とされる有経が元暦元年(1184年)に既に紀伊国守護人であることが確認されており(『根来要書』)、不自然な点がある。近年になって発見された鎌倉時代末期作成の「桓武平氏諸流系図」には朝経の名がない。このため、朝経の系譜関係は不明である。
豊島氏本宗家は室町時代に滅びており、系図はその200年以上後になって復元されたもので、人物の比定に混乱が見られ、近年の研究では朝経は系図では子になっている有経の子と推定され、親子関係が逆転している。
近年の研究を反映した系図では朝経の子(従来の系図では孫)の時光の時に幕府から所領を没収され、朝経の系統は断絶した。
==参考文献==

*杉山博『豊嶋氏の研究』(名著出版、1974年)
*峰岸純夫, 黒田基樹, 小林一岳ら編『豊島氏とその時代―東京の中世を考える』(新人物往来社、1998年)ISBN 4-404-02617-X
*難波江進『豊島氏千年の憂鬱』(風早書林、2005年)ISBN 4-9902643-0-4

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「豊島朝経」の詳細全文を読む




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