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豊川炭鉱馬車鉄道(とよかわたんこうばしゃてつどう)は山形県米沢市より東置賜郡赤湯町および豊川炭鉱を結ぶ計画を立てた鉄道会社および鉄道路線である。 == 概要 == 山形県西置賜郡豊川村高峰の豊川炭鉱〔規模は小さく会社組織ではなかった。昭和20年代まで採掘されていた。〕より産出される亜炭の輸送と米沢-赤湯間の旅客輸送〔乗合馬車は所要時間2時間であった。〕を目的に1888年(明治31年)に県に申請書が提出された。これは県道上に軌道を敷設する馬車軌道で米沢市上花沢信濃町より窪田村、六郷村 を経由し小松町に至る路線と上小松より犬川、豊田村を経て長井町に至る路線であった。11月〔『粡町史』は10月〕になり米沢から赤湯まで建設中の奥羽線〔1899年(明治32年)5月15日に米沢まで開通〕開通時には軌道を撤去することの条件付きで特許状が下付された〔『川西町史』204頁〕。翌年1月11日に創業総会が開催されそこで役員を決定し郡会町議員の蔵田国治が社長に就任した〔明治32年1月30日付『米澤新聞』〕。この豊川炭鉱鉄道株式会社は 資本金5万円、本社を米沢市立町に設置し、運輸業に併せ採炭業を目的としていた〔『日本全国諸会社役員録. 明治32年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕〔『帝国鉄道要鑑. 第1版』明治33年 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。ところで社長の蔵田は同年に株式会社化された米澤新聞社〔『日本全国諸会社役員録. 明治33年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕の取締役でもあり米澤新聞社の専務の高野義雄も役員を兼任していていた。そして米澤新聞により進捗状況が報道され7月15日に米沢停車場-糠野目間の開業認可〔明治32年7月25日付『米澤新聞』〕。近日中(9月2日)に赤湯まで全通〔明治32年9月2日付『米澤新聞』〕とつたえている。さらに軌道が完成していたにもかかわらず旅客輸送をしていなかったがそれに対する風説を打ち消す為に、馬車鉄道は米沢-赤湯間の奥羽線工事〔鉄道馬車ではとても足りず荷車も動員した『鐵道作業局年報. 明治32年度』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕のレンガ輸送を請け負っており株主の利益を考え旅客輸送よりも運輸収入のよい貨物輸送に注力した〔貨車100余台を用意した。〕。また単線故に旅客輸送する余裕がなかったが工事が落ち着けば旅客輸送を開始できるであろうとつたえている〔明治32年11月5日付『米澤新聞』〕。 その後の詳細は不明であるが〔『粡町史』やそれを踏襲した『米沢市史』は客貨とも営業していたことになっているが『川西町史』では運行は計画のみで実現しなかったとしている。確認できる限りでは『鉄道作業局年報』により奥羽線建設工事に馬車鉄道を使用したこと、同じく米澤新聞の記事にも旅客営業を中止して貨物輸送をおこなったとあり、『総会開催』『工事完成間近」「開業認可」などの経過報告はあるものの旅客営業開始を伝える記事は未見。〕、1900年(明治33年)4月21日に奥羽線が米沢 - 赤湯間を延伸開業すると会社は解散した。 なお『川西町史』には県に提出された申請書が掲載されておりこの馬車鉄道の計画の断片を垣間見ることができる。 *軌間 *762mm *駅 *米沢上花沢信濃町 - あら町 - 中田 - 窪田 - 糠野目 - 筑茂 - 大橋 - 赤湯 *車両 *客車は木製4輪車、長さ7尺、定員12名。貨車は木製4輪車。長さ6尺 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊川炭鉱馬車鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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