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豊川 良平(とよかわ りょうへい、嘉永5年1月16日(1852年2月5日) - 1920年(大正9年)6月12日)は、近代日本の実業家、貴族院勅選議員。荘田平五郎や近藤廉平など三菱財閥に多くの人材を紹介し、いとこの岩崎弥太郎を支えた。 なお本名は小野 春彌(おの はるや)だが、豊臣の豊、徳川の川、張良の良、陳平の平をそれぞれ一字ずつ取って改名している。 == 生涯 == === 学生時代まで === 嘉永5年1月16日(1852年2月5日)、土佐藩の御殿医・小野篤治と母・録の長男として高知市南奉公人町で生まれる〔日本工業倶楽部, 1925〕。父・篤治は岩崎弥太郎の母・美和及び岡本寧浦の妻・ときと兄弟にあたる〔『岩崎彌太郎傳(下)』のp.623によると篤治は美和の兄となっているが(この場合篤治は弥太郎の伯父にあたる)、『岩崎彌太郎傳(上)』のp.103によると篤治は慶応元年(1865年)に48歳で病死しており、そこから生年を逆算すると没時の年齢が数え年・満年齢のいずれであっても篤治は美和の弟になる(この場合篤治は弥太郎の叔父にあたる)。また篤治とときの関係についてもときは篤治の姉としている文献と逆に妹としている文献の両方がある。『岩崎彌太郎傳(上)』p.103に記述されている篤治の没年及び没年齢が正しければときは篤治の姉ということになる。〕。少年時代から史記や春秋左氏伝、資治通鑑を学んだ〔小林、P.40〕。慶応3年(1867年)に篤治が亡くなると伯父(篤治の兄)・順吉を養父とした。養父没後、親戚の吉村家に入り〔、藩校の致道館の下塾に徳弘為章や従兄の岩崎弥之助らと通って漢学を学び、2年後の明治2年(1869年)に洋学に転じている。また、明治3年(1870年)に豊川良平に改名した。 明治3年に大阪の土佐藩邸にいる岩崎弥太郎のもとに移り、開成所(東京の開成所とは別)や岩崎英学塾で、弥之助や近藤廉平とともに英語を学んだ。1873年(明治6年)に上京して明治6年に慶應義塾に入り、1875年(明治8年)4月に変則科第3期卒業生の一人として卒業した。同級生に鎌田栄吉がいる。卒業後、浪人しながら馬場辰猪の姪・屋寿と結婚した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊川良平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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