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三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。 == 概要 == 天正18年(1590年)の小田原征伐後は、豊臣秀吉の家臣・池田輝政が吉田城主として入った。輝政は後に徳川家康の娘婿となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して岐阜城攻めで武功を挙げたことから、戦後に播磨姫路藩に移封された。 慶長6年(1601年)2月、武蔵八幡山藩から徳川氏譜代の重臣・竹谷松平家の松平家清が3万石で入ったことにより、三河吉田藩が徳川家臣として立藩する。 慶長8年(1603年)、徳川家康は後陽成天皇より征夷大将軍の宣下を受け、正式に徳川幕府が発足する。三河吉田藩も正式に幕藩体制下の藩となる。 慶長15年(1610年)12月21日に家清が死去すると、子の松平忠清が第2代藩主となるが、忠清は慶長17年(1612年)4月20日に死去し、嗣子が無かったために断絶・改易に処された。 直後の11月12日、三河深溝藩から松平忠利が入る。しかし第2代藩主・松平忠房時代の寛永9年(1632年)8月11日に三河刈谷藩に移封。入れ替わる形で水野忠清が入るが、寛永19年(1642年)7月28日に信濃松本藩に移封される。 駿河田中藩より水野忠善が入るが、正保2年(1645年)7月14日に三河岡崎藩に移封。 豊後杵築藩から小笠原忠知が入る。第2代藩主・小笠原長矩は寛文3年(1663年)、弟の小笠原長定、小笠原長秋に3000石、2000石を分与したため、吉田藩は4万石となる。第4代藩主・小笠原長重時代の元禄10年(1697年)4月19日に武蔵岩槻藩に移封される。 直後の6月10日、丹波亀山藩から久世重之が入る。新居関所を管理することになる。しかし重之が宝永2年(1705年)9月に若年寄に就任したことを契機に、10月には下総関宿藩に移封となる。入れ替わる形で牧野成春が入るが、第2代藩主・牧野成央が幼少で第2代藩主となったことから、江戸幕府では三河の要衝を任せておけぬとして、正徳2年(1712年)7月12日に日向延岡藩に移封された。 下総古河藩より、松平信祝が7万石で入るが、享保14年(1729年)2月2日に信祝が大坂城代に任じられたため、2月15日には所領を遠江浜松藩に移封され、入れ替わる形で松平資訓が入るが、寛延2年(1749年)10月15日に京都所司代に任じられたため、遠江浜松藩に再封される。 入れ替わる形で松平信復(信祝の子)が7万石で入り、ようやく藩主家が定着した。 歴代藩主の中で最も有名な藩主が、第4代藩主の松平信明である。信明は天明8年(1788年)4月に老中に任じられて、松平定信の寛政の改革に参与した。寛政5年(1793年)、定信が辞職すると老中首座となり、事実上の最高権力者として幕政を主導した。信明は享和3年(1803年)12月に老中を辞職したが、文化3年(1806年)5月に復帰し、再び老中として幕政を主導している。 第5代藩主・松平信順は大坂城代・京都所司代を歴任した後の天保8年(1837年)5月16日に老中になるが、8月6日には辞職している。 最後の藩主・松平信古は間部詮勝の次男として生まれ、大坂城代に任じられて、幕末における畿内の混乱収拾に務めた。慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が起こると、藩内では佐幕派と尊王派が分裂して抗争するが、2月に新政府軍が吉田に迫ると尾張藩の斡旋もあって、3月に信古は上洛して新政府に降伏した。 明治2年(1869年)6月17日、版籍奉還により信古は吉田知藩事に任じられる。しかし信古は早くから幕府を見限って新政府に降伏していた伊予吉田藩と同名であることを嫌って、6月19日に豊橋藩と改称した。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で豊橋藩は廃藩となり、豊橋県、額田県を経て、愛知県に編入された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三河吉田藩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yoshida Domain 」があります。 スポンサード リンク
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