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豊田 次郎(とよだ じろう、1967年6月2日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == === アマチュア時代 === 東洋大姫路高ではサブマリン投法の好投手として知られ、ゆったりしたフォームからコーナーをつく投球を持ち味としていた〔。の近畿大会の決勝戦では、当時最強と謳われ桑田真澄、清原和博を擁したPL学園を完封している。の選抜大会では1回戦で敗れたが、同年の選手権大会では1回戦で高岡商と対戦して2安打完封で勝利をおさめた〔asahi.com 第67回全国高校野球選手権大会 東洋大姫路 対 高岡商 〕。2回戦では自ら本塁打を放って黒須陽一郎や高林孝行を擁する立教に完投勝ちし〔読売新聞、1985年8月16日付朝刊、P.15〕、続く3回戦で佐々木主浩との投げ合いの末に東北高校に敗れている〔asahi.com 第67回全国高校野球選手権大会 東北 対 東洋大姫路 〕。 高校卒業後は、川崎製鉄神戸に入社して社会人野球でプレーした。当初は3年ぐらいでプロ入りする事を目標にしていたが、想像以上に社会人のレベルが高く、5年目の頃に投球フォームをサイドスローに変えている〔毎日新聞、1995年1月28日付朝刊、P.17〕。一方、には新日鐵広畑、は三菱重工神戸、は神戸製鋼からそれぞれ補強選手として指名され、都市対抗に出場した。結婚した1993年頃から投球が安定するようになり〔、さらに翌には125km/h前後の高速版と90km/h前後のもの、そして握りの調整によって内外角に変化するものの計3種類のシンカーをマスターしている〔毎日新聞、1994年9月27日付夕刊、P.3〕。これによってカウントも取りやすくなって投球の幅が広がり、エースとして寺本比呂文らとともに先発投手陣を支え〔毎日新聞、1994年6月10日付朝刊、兵庫地方面〕、チームは4年ぶりに都市対抗出場を果たした。 同年は広島アジア大会で初めて日本代表に選ばれ〔、準決勝・決勝でともに先発を任されるなどシュートとシンカーを武器に金メダル獲得に貢献している〔毎日新聞、1994年12月13日付夕刊、P.3〕。日本選手権では3回戦の対松下電器戦で1失点完投勝ちを収めるなどの活躍で優秀選手賞を受賞〔毎日新聞、1994年10月23日付朝刊、兵庫地方面〕。同大会をもって廃部となる川鉄神戸野球部のベスト4進出を支えた。また、年間を通じて国内外で活躍した点が評価され、同年は社会人ベストナインに選出されている〔毎日新聞、1994年11月18日付朝刊、P.20〕。同僚は社内の千葉野球部や水島野球部などに移っていったが、自身は1994年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから4位指名を受け、契約金7000万円、年俸1000万円(いずれも推定)で入団〔読売新聞、1994年12月7日付朝刊、P.17〕。この時27歳になっており、娘も生まれたばかりだった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊田次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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