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豊田 章一郞(とよだ しょういちろう、1925年(大正14年)2月27日 - )は、日本の実業家、技術者。勲等は桐花大綬章。学位は工学博士(名古屋大学・1955年)。トヨタ自動車株式会社名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長、株式会社デンソー取締役、東和不動産株式会社取締役会長、社会福祉法人恩賜財団済生会会長、学校法人海陽学園理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事。 トヨタ自動車販売代表取締役社長 (第4代)、トヨタ自動車株式会社代表取締役社長(初代)、経済団体連合会会長(第8代)、学校法人トヨタ名古屋整備学園理事長(初代)、学校法人トヨタ神戸整備学園理事長(初代)などを歴任した。 == 来歴 == === 生い立ち === 愛知県名古屋市白壁町生まれ。ソニー創業者の盛田昭夫が近所に住んでいた。愛知第一師範学校附属小学校(現愛知教育大学附属名古屋小学校)を経て、1936年、父について東京市本郷区曙町(現本駒込)に転居し、本郷区立誠之小学校6年に編入。翌年旧制東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校の前身)入学。父・喜一郎は多忙でほとんど家におらず、府立一中の入学式には、当時喜一郎宅に下宿していた豊田英二が、父兄代行として出席した。1938年に赤坂に転居〔「豊田章一郎(4)ドライブ 米国車で工場用地見学 東京へ転校「佐吉の孫」と話題 」 〕。 1942年(昭和17年)旧制中学を卒業して、旧制第一高等学校(東京大学教養学部の前身)理科甲類に進学するが、勤労奉仕のため三菱重工業工場や埼玉県での芋掘りに従事。徴兵検査で甲種合格となったものの、理系だったため徴兵延期され、1944年10月旧制名古屋帝国大学工学部機械科に入学。自動車工学が専門の小林明教授に師事し、1947年(昭和22年)9月に名古屋大学工学部機械工学科を卒業した。在学中は自動車同好会を設立し、仲間とともにダッジ・ブラザーズの中古車で知多半島などのドライブを楽しんだ。2002年に設立された名古屋大学全学同窓会では初代会長を務めた。 名古屋大学在学中は第二次世界大戦による混乱であまり勉強ができなかったため、父の勧めで、父の高校・大学の友人であった機械工学者抜山四郎が教授を務める東北大学工学部大学院に1947年、入学。仙台市北一番町の下宿から大学に通い、棚沢泰教授の研究室で高速液流微粒化の研究にあたった〔「豊田章一郎(7)入社以前 大学で液流微粒化研究 住宅会社で企業人の第一歩 」 〕。並行し、食料不足に対応するため親戚が始めた稚内の水産加工会社のちくわ・かまぼこ工場での作業に従事。1950年に名古屋に戻り、田辺平学・東京工業大学教授の特許を用いる住宅事業を、トヨタ自動車工業営繕課から独立させ、ユタカプレコン株式会社を設立。同年6月ユタカプレコンから改称した豊田コンクリート株式会社取締役、1956年10月から同社監査役〔「豊田章一郎(7)入社以前 大学で液流微粒化研究 住宅会社で企業人の第一歩 」 〕。 東北大学での研究をもとに、1955年に名古屋大学で「燃料噴射に関する研究」で工学博士の学位を取得〔「本学会名誉会員 豊田章一郞さん勲一等旭日大綬章おご受賞おめでとうございます 」『品質誌』(日本品質管理学会)Vol. 32, No.4〕。なお、2006年4月チェコ工科大学名誉博士、2006年11月名古屋工業大学名誉博士、2007年4月早稲田大学名誉博士(Doctor of Laws)〔豊田章一郞氏に名誉博士学位を贈呈 早稲田大学。〕。 地味で真面目な性格を自認し、身長も160cm程度と小柄で、パフォーマンスは苦手なため、目立たない印象を持たれることが多い。また、約束事を大事に考え、「できないことは決して言わない」などとの信条から、口数少なく言葉を選んで要点だけを簡潔に話すような話し方をする。一方、建前論を展開するのが苦手で本音が出てしまうウソの付けない性格とされる〔「no.3 平岩外四~深慮遠謀秘めた気配り、no.4 豊田章一郎~平凡と ...」 「【時代のリーダー】豊田 章一郎・トヨタ自動車会長」 〕。小学校・中学校時代の友人鳥羽欽一郎(早稲田大学名誉教授)は、豊田について、一人で一日中鉄棒を練習していたりするなど、昔から「ど真面目」な性格であったという〔「難局打開へプリンス正念場 背中に日本、期待の指導力」 〕。温和な性格で〔「「トヨタを大型・高級車に走らせた」-名誉会長が渡辺社長をしかる 」 Bloomberg〕、自己主張も弱く、家族ぐるみの付き合いのある石川六郎(元鹿島社長)は、豊田が自分の意見を人に押し付けるようなことをしたのを見たことがなく、他人から厳しい批判を受けて怒ったこともないとする〔「【時代のリーダー】豊田 章一郎・トヨタ自動車会長」 〕。中学・高校の同級生である長岡實(元大蔵事務次官)は、同じく中学・高校の同級生だった井上厳三(貿易商)が、大学卒業後、会うたびに豊田のことを、ボンボンで社会の厳しさがわかっていないとか、会社経営は難しいなどと厳しく批判するのに対し、一度も反論をせずに話を聞き、井上が飛行機事故で死去した際には、涙を流して死を惜しんだという〔「【時代のリーダー】豊田 章一郎・トヨタ自動車会長」 〕。また追悼のため編まれた遺稿・追悼集『追憶 井上厳三の一生』に「惜しまれる国際人」との寄稿を寄せている〔『追憶 井上厳三の一生』第二整版印刷〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊田章一郎」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shoichiro Toyoda 」があります。 スポンサード リンク
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