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豊田 芙雄(とよだ ふゆ、弘化2年10月21日(1845年11月20日) - 昭和16年(1941年)12月1日)は、女子教育家である。女子高等教育の先駆者、日本の幼稚園教育の開拓者などともいわれ、日本の女子教育界発展に大きく貢献したほか、日本の保母第1号とされる。藤田東湖の姪。豊田香窓の妻。名は冬、冬子。のち芙雄と改めたが、後年は芙雄子と署名することが多かった。 == 生涯 == 水戸藩郡奉行・桑原信毅の次女として、水戸に生まれる。幼少時から学問を好み、穴沢流薙刀術の伝授も受けた。文久2年(1862年)、豊田天功の子・小太郎(豊田香窓)と結婚した。しかし、慶応2年(1866年)に香窓は暗殺され、生涯、再婚をすることもなかった。そのため芙雄には子ができず、天功の孫の伴を養子とした。 明治8年(1875年)に上京して、新設された東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の読書教員となり、翌明治9年(1876年)に四等訓導兼副舎監となった。同年10月、同附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)が開設されるとその保母に任命され、日本の保母第1号(官立幼稚園の保母第1号)となった。 明治20年(1887年)、水戸徳川侯爵夫妻に同行してヨーロッパに渡り、文部省から依託されて女子教育を学んだ。帰国後、栃木県などで女子教育に従事し、明治34年(1901年)に新設された水戸高等女学校(現在の茨城県立水戸第二高等学校)と女子師範学校の教諭を兼任して国語漢文科の教員免状を受けた。大正11年(1922年)に水戸高等女学校を退職すると、私立好文女学校講師や大成女学校(現在の大成女子高等学校)校長などを務めた。「女が女の特性を発揮させ,良妻賢母になるために高等教育が必要」であると説いて、日本の女子高等教育の開拓・発展に大きく貢献した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊田芙雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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