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豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ) / 羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名浅井長政の家臣宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉〔とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし よしのぶ)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人になると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。 == 生涯 == === 生い立ち === 永禄11年(1568年)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として尾張知多郡大高村で生まれた。名は治兵衛(じへえ)〔。 元亀元年(1570年)4月、織田信長と同盟していた北近江の浅井氏が離反して朝倉氏についたことから、信長は金ヶ崎より一旦撤退した後、6月に改めて徳川家康の援軍と共に出陣して、近江姉川河原で浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利した。その後、浅井親子が籠城して小谷城攻めは長期化したが、陥落させた支城の横山城に入り、攻囲の責任者となったのが秀吉であった。 秀吉は小谷城の他の支城に対して次々と調略を試み、元亀3年(1572年)、宮部城主の宮部継潤〔前歴は比叡山の僧兵とも山法師とも言い、宮部善祥坊清潤の養子となった人物。継潤本人も善祥坊とも称した。宮部城は厳密な所在地は不明ながら、小谷城のすぐ近くで、主城を守る上で重要な地点にあったと思われる。〕を巧みに勧降したが、この際に継潤の安全を保障するための人質として送られたのが、当時4歳の甥の治兵衛であった。治兵衛は、名目上、継潤の養子とされ、治兵衛の百姓名を棄て、通称を次兵衛尉、諱を吉継と改めて、「宮部吉継」を名乗ることになった。『筑後国史』によると、この時に継潤によって宮部家家臣の田中久兵衛が傅役とされたと云う。彼は後に吉政と名を改めたが、秀次には最も長く側近として仕えている。 天正元年(1573年) 9月1日、小谷城は陥落して浅井氏は滅亡した。(小谷城の戦い) 信長は第一の功績を秀吉に認めて同城を与え、宮部継潤も秀吉の与力の1人とされた。吉継(秀次)がいつまで宮部家の養子でいたのかわからないが、自分の臣下となった者に人質を出して置く道理がないため、天正2年(1574年)、琵琶湖沿岸に長浜城が築かれたときにはすでに復氏していたと考えられている。羽柴姓か木下姓に戻っていたようであるが、6歳の秀次がこの頃に何と名乗っていたかは不明。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊臣秀次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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