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天草 四郎(あまくさ しろう)、元和7年(1621年)/元和9年(1623年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日)は、江戸時代初期のキリシタン。島原の乱における一揆軍の最高指導者とされている。 本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。洗礼名は当初は「ジェロニモ()」であったが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱当時は「フランシスコ()」に変わっていた。一般には天草四郎時貞という名で知られる。また、後述の通り豊臣秀頼(豊臣秀吉の息子)の落胤であったとする伝説もあるが信憑性は低い。 == 生涯 == 肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる〔天草四郎の歴史 天草四郎観光協会〕。しかし、宇土郡江部村(現在の宇土市)〔天草四郎(熊本歴史・人物 〕または長崎出身〔天草四郎時貞 宇土市〕という説もあり、出生地ははっきりしない(生年も諸説ある)。益田家は小西氏滅亡後、浪人百姓として一家で宇土に居住したという。 生涯については不明の点が多いが、生まれながらにしてカリスマ性があったという。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようである。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、様々な奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こしたという逸話もある。もっとも、このような類の逸話は、イエス・キリストが起こした奇跡として新約聖書の四つの福音書にも多数書かれており、上記の逸話は四郎の名声を高める目的でこれら福音書の言い伝えを参考に創作されたと見ることもできる。 1637年に勃発した島原の乱ではカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となる〔神田、『島原の乱』、P125。原資料は「山田右衛門作口書写」〕。戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わるが、四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎないと見られる。 一揆軍は当時すでに廃城となっていた原城に立てこもり、3ヵ月に及ぶ籠城戦を続けたものの、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられた〔幕府軍の記録では、内通者の山田右衛門作ただ一人を除いて一揆軍は皆殺しにされたと言われるが、幕府軍の総攻撃が行われる前に1万人以上が投降して生き延びたとする説もある(神田千里:『宗教で読む戦国時代』p198、講談社)。〕。この時、四郎も原城の本丸にて幕府方の肥後細川藩士・陣佐左衛門に討ち取られたと伝えられる。殺された後に首は切断され、原城三の丸の大手門前、そして長崎出島の正面入り口前に晒された。なお、このとき幕府側には天草四郎の姿や容貌の情報が全く伝わっておらず、幕府軍の陣には四郎と同じ年頃と見られる少年たちの首が次々に持ち込まれたものの、幕府軍はどれが本物の四郎の首であるか分からなかったため、以前から幕府軍に捕えられていた四郎の母(洗礼名:マルタ)にこれらの首を見せたところ、母は陣佐左衛門が持って来た首を見て顔色を変え、その場で泣き崩れた。これにより、幕府軍は佐左衛門が持って来た首を四郎の首と断定したという(細川藩資料:「肥前国有馬戦記」)。 天草四郎が豊臣秀頼の落胤であるとする説は、四郎の馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、大坂夏の陣において死亡したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠で、豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられている。「豊臣秀綱」という名があったと鹿児島所有の書物に記されている。 現在、原城跡をはじめ天草、島原など複数箇所に銅像が建てられている。また、四郎の母が建立したと思われる墓石が後年民家の石垣から発見され、原城跡に移築されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天草四郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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