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豊臣秀長 : ウィキペディア日本語版
豊臣秀長[とよとみ の ひでなが]

豊臣 秀長(とよとみ の ひでなが、とよとみ-) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名
豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある〔小和田哲男『豊臣秀吉』〕)。秀吉の信頼厚く、その片腕として辣腕を揮い、豊臣政権において内外の政務および軍事の両面で活躍を見せ、天下統一に大きく貢献した。
最終的には大和紀伊和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大大名となるに至る。また官位従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であった。豊臣秀吉政権で徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。
== 生涯 ==

=== 織田信長の時代 ===
天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、面識は少ないと思われる。秀吉に仕え始めた時期の正確な記述はなく、秀吉とねね(高台院)との婚礼(永禄7年(1564年)の後という説が多い。
斎藤龍興との戦いでは、合戦に参加する秀吉に代わって城の留守居役を務めることが多かった。
天正元年(1573年)、秀吉が浅井氏を滅ぼした功により長浜城主となると、城代を務めることもあった。この数年後には秀長の右腕となる藤堂高虎が仕官し、この主従関係は秀長の養子である秀保が早世するまで続いた。この時期から、秀吉と丹羽長秀または織田信長から一字ずつ貰って長秀(後に秀長と改名)のを使用し始めたと思われる。天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣する(『信長公記』)。
天正3年(1575年)、羽柴の名字を与えられる〔村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、1996年。〕。
秀吉が織田信長の命令により中国攻めの総司令官となると、山陰道及び但馬国平定の指揮を委ねられる。黒田孝高宛の秀吉直筆の手紙に、信頼の代名詞として「小一郎」(秀長の通称)の名が出るなど、秀吉陣営の最重要の人物に成長する〔黒田侯爵家文書〕。天正5年(1577年)に秀吉に従い播磨国に赴き、その後は但馬攻めに参戦した。竹田城斎村政広によって落城(竹田城の戦い)すると、城代に任命される(『信長公記』)。
天正6年(1578年)に東播磨地域で別所長治が反旗を翻し、兄と共に制圧に明け暮れることとなり、動揺により支配の後退した但馬を再度攻めることとなった。同年、黒井城の戦いに援軍として参戦する。天正7年(1579年)、別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃する。続いて淡河城を攻めるが、淡河定範の奇策により撤退した。しかし定範が城に火を放ち、三木城に後退したため補給路を断つことに成功する(三木合戦)。
天正8年(1580年)1月に別所一族が切腹し、三木合戦が終戦する。同年、秀吉軍が山名氏の但馬出石城有子山城を落城させ、当主・山名祐豊を滅ぼし但馬国平定が完了する。秀長は出石城主となる。
天正9年(1581年)3月に毛利家から吉川経家鳥取城に入城する。秀吉は鳥取城を取り囲み、兵糧攻めが開始される(鳥取城の戦い)。秀長も鳥取城の包囲する陣城の一つを指揮する。同年10月、経家の切腹により終戦する。
天正10年(1582年)4月、秀吉軍は備中高松城を包囲し、水攻めを行う(備中高松城の戦い)。秀長は鼓山付近に陣を張り参戦する。6月には水攻めの効果により、城主・清水宗治が切腹する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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