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豊響 隆太(とよひびき りゅうた、1984年11月16日 - )は、大阪府大阪市生まれ、山口県豊浦郡豊浦町(現在の下関市豊浦町)出身で境川部屋所属の現役大相撲力士。本名は門元 隆太(かどもと りゅうた)、愛称はカドリュウ。身長184cm、体重186kg、血液型はB型。得意手は突き、押し。趣味は昼寝。最高位は東前頭2枚目(2008年11月場所)。 == 来歴 == 小学校2年生の時に豊浦町に移り、地元のスポーツ少年団加入がきっかけで相撲を始めた。そのときの先輩・チームメイトに豊真将がいる。門元少年の中学進学のときに山本少年は関東の高校に進学したためふるさとを離れたが、門元少年はその後も豊浦町に残った。 高校時代は山口県立響高等学校で活躍した。高校在学中に境川親方が家にやって来て勧誘を受けたが「親方にお世話になったら」と声をかけた母に対して「だったらお前が行けよ」〔秀逸だった境川親方のスピーチ 弟子・豊響の披露宴で送った言葉とは… (1/2ページ) 産経ニュース 2016.2.20 14:00更新 〕とぞんざいな口を聞く門元を見た境川は「親に向かってそんな口をたたく奴はこっちからごめんだ」と切り捨て、一旦境川部屋への入門は破談となった。卒業後、大相撲は厳しいからと就職する道を選び、造船所アルバイト、トラック運転手などの仕事をして相撲から離れていたが、兄の助言もあって境川部屋に入門。その際に自ら境川へ入門を志願し、前述の母親に対するぞんざいな振る舞いを詫びたという。〔『大相撲ジャーナル』2013年10月号〕2005年(平成17年)1月場所で初土俵を踏んだ。一時は同じ部屋の高校横綱・豪栄道(同期入門)らとともに、期待されている若手の一人であった。四股名の豊は出身地の下関市豊浦町と母親の名前「豊美」の「豊」、響は出身校の響高校の「響」に由来する。 2006年(平成18年)11月場所では西幕下3枚目の地位で4勝3敗と勝ち越し2007年(平成19年)1月場所の新十両を決め、入門からわずか2年で関取に昇進した。この場所で10勝5敗、十両上位の栃煌山、霜鳥との優勝決定戦を制し、新十両での十両優勝を果たした。翌3月場所は千秋楽に8勝7敗と勝ち越しを決めた。翌5月場所では10勝5敗と新十両の場所以来2場所ぶり2度目の2桁勝利で7月場所では新入幕を果たした。その場所は11勝4敗の好成績で敢闘賞を受賞した。翌9月場所は序盤は5勝2敗と好調であったものの、以降は相手が少し横に動いただけでバランスを崩し土俵に倒れこむという下半身のもろさが露呈し、7勝8敗と負け越した。 2008年(平成20年)1月場所では、2007年12月に患った肺炎のため6勝9敗と負け越した。翌3月場所でも初日からの7連敗などが響き、5勝10敗と大きく負け越し、4場所連続で負け越しとなった。5月場所では7日目まで6勝1敗の好成績だったがその後5連敗して8勝7敗に終わった。7月場所は13日目を終えて10勝3敗と幕内の優勝争いにも名前が挙がり、14日目、千秋楽の番付上位の力士との対戦では連敗したが10勝5敗で敢闘賞を受賞した。番付を大幅に上げた9月場所では苦戦が予想されたが8勝7敗と勝ち越し、11月場所では自己最高位となる東前頭2枚目まで番付を上げたが、網膜剥離のため全休した。〔『大相撲ジャーナル』2014年4月号では尾崎勇気が「目を怪我してからは仕切り線の手前から当たるようになった」と網膜剥離の影響を証言していた。〕 2009年(平成21年)1月場所は14日目までで5勝9敗。千秋楽に十両の土佐豊に勇み足で敗れて5勝10敗と二桁黒星、翌3月場所は西十両3枚目まで番付を落とした。出直し場所となった翌3月場所は、12勝3敗で2度目の十両優勝を果たし、1場所で幕内に復帰。翌5月場所は序盤まで3勝2敗だったが、11日目に勝ち越しを決め、最終的に11勝4敗の好成績を挙げた。 西前頭16枚目でむかえた2010年(平成22年)1月場所は、12勝3敗という好成績を挙げ、敢闘賞を受賞した。 2010年に起きた大相撲野球賭博問題では野球賭博に関わったとされ、特別調査委員会から名古屋場所での謹慎休場を勧告され、相撲協会もそれを受け入れた〔朝日新聞 2010年6月29日〕。そのため同年7月場所は全休、翌9月場所は十両へ陥落となった。9月場所はやや調子が落ち込んでおり、7勝8敗と負け越した。続く11月場所では四つに組む相撲が少なくないものの、最終盤まで優勝争いの先頭を走り、千秋楽本割で幕内の隠岐の海に敗れ、4人の優勝決定戦トーナメントでも決勝戦で魁聖に敗れ優勝を逃しはしたが、実力の差を見せた。 2011年(平成23年)1月場所で3度目の入幕、2012年(平成24年)5月場所では東前頭3枚目となり久々に上位総当りとなったが、3日目に琴欧洲を破って大関戦初勝利を挙げた。この後日馬富士も破って7日目に横綱白鵬戦を迎えた。土俵際の捨て身の小手投げで勝ったかに見えたが、立行司木村庄之助の軍配は白鵬に上がって物言いがついた。協議の結果、行司軍配差し違えで豊響の勝ちとなり、初金星を獲得した。ただしそれ以降は負けが込み、この場所は5勝10敗と負け越した。同年9月場所は西前頭4枚目の地位で迎え、この場所では琴奨菊、把瑠都、琴欧洲の3大関が途中休場を喫したため勝ち越して新三役昇進を手にするまたとない機会であったが惜しくも7勝8敗の負け越し。2013年5月場所は西前頭10枚目まで番付を落とし、ここでは初日の黒星から3日目までヌケヌケとなったかと思えば4日目から13日目までにかけて5連勝した後に5連敗を喫するという連相撲ぶりを発揮するが、14日目と千秋楽を連勝して8勝7敗の勝ち越し。しかしこの場所の淡白な結果は解説の北の富士に残念がられてしまった(後述)。2014年5月場所は東前頭11枚目の地位で迎え、初日から2連勝、2連敗、3連勝、3連敗、2連勝、2連敗といった具合に珍しい星取を見せ、千秋楽に勝って8勝7敗とした。 2015年6月には4歳年下の一般女性との婚約を発表、年内に入籍した。〔豊響が婚約、一目ぼれのお相手は場所のアイス売り子 日刊スポーツ 2015年6月6日18時10分〕2016年2月14日には挙式・披露宴が行われ、約600人から祝福された。式には豊響下関後援会の名誉会長を務める安倍晋三の妻・安倍昭恵も出席。前日に首相公邸に招いて豊響夫婦と首相が食事をしたことを明かして、安倍は「豊響関はすごい寡黙なのに、なんであんなきれいな奥さんを口説くことができたのだろう」と笑っていたという。〔豊響が結婚式で三役取り宣言、安倍首相夫人も出席 日刊スポーツ 2016年2月14日19時3分〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊響隆太」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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