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豪潮(ごうちょう、ごうしょう:寛延2年〈1749年〉 - 天保6年7月3日〈1835年7月28日〉)は、江戸時代の僧侶。長崎の出島において、中国僧より直接、当時の中国密教と戒律等の伝授を受け、その生涯を通じて本尊とした準提仏母(准胝観音)の信仰を広めると共に、御霊の供養と飢饉救済を目的とした仏塔(宝篋印塔)の建立に勤め、大小あわせて約八万四千の仏塔を建立したと伝えられる〔豪潮律師が作ったされる仏塔は、大きいものは高さ8メートル、小さいものは約5センチとあり、材質も様々で金属製や木製のものもある。正式に宝篋印塔や梵字塔として野外に建立されたものは、約二千基とされている。〕。また、自身が戒律を守ることに専一なだけでなく、天台宗において史上初の出来事として、中国密教に基づいた小乗戒・大乗戒・三昧耶戒を網羅した体系的な戒律をもたらし、江戸時代の『戒律復興運動』に貢献した。僧俗にも戒律と灌頂を授け、各寺院において「懺法」(さんぽう、せんぽう)〔歴史上の釈尊以来の教えとして、小乗・大乗・金剛乘(密教)に共通して仏教徒となるためには戒律を授かる必要があり、授かった後は戒律を維持するために、毎月2回、普通は新月と満月の時か、旧暦の1日と15日に集まって懺悔(さんげ)のための『懺法』という法要を行なう必要がある。この法要を日本では『布薩会』(ふさつえ)とも呼んで、お寺の重要な行事とされた。豪潮律師が信仰した準提仏母は、密教に不可欠な三昧耶戒を取り戻すための重要な尊挌とされ、かの弘法大師空海が高野山の開山にあたり、最初にお祀りした仏像とも伝えられている。〕を実施した。 当時の僧侶の教養として書を学び、唐墨〔ここでいう「唐墨」は、当時の中国からもたらされた墨を指す。明代や清代には、新たな技術革新によって、目的に応じた書き味が異なる墨や、美術品としの価値を持つ鑑賞・贈答用の墨や硯が次々と作られた。現在、この時代の墨や硯は、好事家の間で非常に高価なものとして珍重されている。〕〔『豪潮律師の研究』(日本談義社)、p165。〕を用いた独特の書風をものにした。出身地の九州では能書家としても知られていて遺されている作品も数多くあり、北島雪山(1636-1697)・秋山玉山(1702-1764)らと共に「肥後の三筆」と称えられる。また、和歌や文人画等にも通じていて作品もあり、同時代の禅僧・仙厓和尚とも個人的な交流があった。 == 来歴 == 寛延2年(1749年)、肥後国玉名郡(現・熊本県玉名市岱明町山下)の浄土真宗安養寺の塔頭「専光寺」第二世・貫道の次男として生まれた。 宝暦5年(1755年)9月3日、父親の貫道が二人の子供を呼び寄せていうには、「私は若い頃から(浄土真宗の僧は有髪で在家とかわらないため)、天台宗か真言宗の(正式に戒律を学んだ出家の)聖僧となって仏に仕えたいと念願して、決意三度に及んだが、いつも障害があって志願を遂げることができず、残念に思っていた。今、寺には(男子は)お前たち二人がいるから、うち一人は私の志を継いで、天晴れ立身出世してくれないか」と言ったところ、豪潮は言下に出家を快諾して、それにより兄の昇道が專光寺を継ぐこととなった〔『豪潮律師の研究』(日本談義社)、pp.9-10。〕。 こうして、7歳の時、父に伴われて現在の荒尾市野原の名刹・天台宗霊験寺の豪旭阿闍梨のもとで修行を始め、快潮と名付けられる。いわゆる父の志を継ぐことは、豪潮律師にとってその後の一生と、修道の方向性を決定づける要因ともなった。 後に、16歳で比叡山延暦寺に入山。そこで、遍照金剛大阿闍梨、権大僧都法印伝・燈大法師の階位と広海の尊号を受けるほどの高僧となる。 安永5年(1776年)、師僧の豪旭の円寂(死去)に伴って玉名市繁根木の寿福寺に移った。寿福寺において師の跡を継ぐにあたり、寺が所蔵する酒器類の一切を粉砕して捨て去り、蔵米を貧者に分け与え、「葷酒不許入山門」として全ての酒類は山門より入るのを許さず、「持律堅固」であり僧として戒律を堅く守る決意を檀家や信徒に示した。また、準提仏母への信仰が厚く粉骨砕身の苦行を自らに課して、『準提法』を行じるときは精進の上で「火の物断ち」という火が通った食べ物を一切口にしないことにして、そば粉を水で練ったものを食するのみで、出家の行ないである「三衣一鉢」(さんねいっぱち)という三枚からなる僧衣と食器以外は、自身の財産となるものを一切持たない生活を続けられた。これを伝え聞いた、九州・四国・中国地方の諸侯が競って豪潮律師に帰依し、貴賎の別なく数多くの僧俗の老若男女を教化した〔『豪潮律師遺墨』(日貿出版社)、p172。〕。 天保6年(1835年)7月3日、豪潮律師は自身の死を予感し、弟子らには秘密にして一同を呼び、後継者の実戒律師と数時間に渡って歓談したのちに一同を呼び集めて次のように言った、「私が死んだ後は、私の日ごろの訓示をよく心に留めておき、私の遺志を尊重して間違いのないようにしなさい。戒律はその明らかなことは大きなともし火の如く(皆の心の灯台となり)、また、(修行や信仰にとっては)大地の如しであり、総ての善行はこれによって生じるのである。皆さんは、その身を慎んで、放逸になることがあってはならない。」と訓示した。 そうして、沐浴・斎戒をして着衣をあらため、「いざさらば、無一物とは申せども、置き土産には南無阿弥陀仏」と、「南無阿弥陀仏、なむあみだぶつと生まれ来て、南無阿弥陀仏と共に往生」の辞世の道歌を揮毫したのち、端座して自身の本尊である準提仏母(准胝観音)の根本印の手印を結んで、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と口に念仏を唱えながら、数回ののち「南無阿弥陀仏」の「阿」の字〔この場合の「阿」字は、「阿字本不生」(あじほんぶしょう)という密教における不生の仏心を体現した「阿」であるとみられる。〕を唱えて微笑み、日没時に大圓示寂大往生した。僧俗男女を問わず、これを伝え聞いた者は号泣して喪に服したと伝えている〔『豪潮律師遺墨』(日貿出版社)、p180、p189。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豪潮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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