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貝澤 藤蔵(かいざわ とうぞう、1888年-1966年)は、アイヌ民族の社会活動家。小冊子『アイヌの叫び』の著者。藤蔵の妻・コヨは旭川、近文アイヌの長・川村カ子トと才登の妹であり、砂沢クラの親友。門別薫は、藤蔵の子。 ==生涯== 1928年4月から長野県天竜峡で川村カ子トが率いる鉄道測量隊の一員として働く。1930年頃、白老の熊坂シタッピレに依頼され観光客に解説をする仕事をするようになった。1931年8月3日に札幌で開催された全道アイヌ青年大会に出席し、11月に小冊子『アイヌの叫び』を発行。その翌年12月に慶應義塾・地人会で講演する。1933年に長野県伊那高等女学校(現・長野県伊那弥生ヶ丘高等学校)でアイヌ文化についての講演を行い、講演内容の記録が残っている。1934年新春、川村カ子トとともに日高の静内に森竹竹市を訪れる。1938年、川村カ子トに従い測量工事の仕事で朝鮮に出かけている。1951年、川村カ子トが再建したアイヌ記念館で解説の仕事をするようになる。1964年、旭川市で開催された北海道アイヌ祭に参加。 晩年は白老で「ウサシカン」という名前で、観光客相手にアイヌ民族の紹介に努め、白老で亡くなったと思われる。 1926年(大正15年・昭和元年)頃に、熊坂シタッピレにならって木彫を試み、木彫り熊とクワ(アイヌ語で杖の意)を残す。アイヌ民族の活動家だった荒井源次郎によると、藤蔵は「稀に見る書道家にして、書を通じてコタンの青少年の指導に尽くす」とあるが、藤蔵の書道作品が保存されているかどうか、いまにわからない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「貝澤藤蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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