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貞熹王后尹氏(ていきおうこう・いんし/チョンヒワンフ・ユンシ、永楽16年11月11日(1418年12月8日) - 成化19年3月30日(1483年5月6日))は李氏朝鮮第7代・世祖の正室。本貫は坡平。諡号は慈聖欽仁景徳宣烈明順元淑徽慎恵懿神憲貞熹王后。朝鮮最初の「垂簾聴政」を行った。 == 生涯 == 尹氏は江原道で生まれた。11歳のころ、世宗の次男・首陽大君(後の世祖)の正室選びに宮廷の使者が訪れ、それを見に母の後ろに隠れていた彼女は使者の目に留まり、決定された。当初、尹氏の姉が正室候補であった。尹氏は1歳年上の首陽大君と結婚、2男1女を儲けた。 1452年、首陽大君が韓明澮らと手を組み「癸酉靖難」を起こし朝廷を掌握。決行前、ためらう夫に尹氏は鎧を着せ決心を促し成功に導いた。それが彼女を国政に動かす契機となった。1455年、首陽大君は甥の端宗から王位を奪って即位、尹氏は王妃となった。しかし、1457年に長男の桃源君(義敬世子)が病没。1468年、世祖が癩病(現在でいうハンセン病)を患い薨去し、同年、次男の睿宗が即位したが翌年に薨去した。 1469年、慈聖大妃は睿宗の息子が幼いため、韓明澮と協力し、桃源君の次男で13歳の者山君を国王に即位(成宗)させ、摂政として桃源君の妃で新国王・成宗の生母である仁粋大妃とともに国政を取り仕切った。儒教中心の朝廷で女が直接表立つことが好まれなかったため、玉座の後ろに簾を掛け、朝鮮で初めて「垂簾聴政」を行った。一方、仁粋大妃は桃源君の長男、月山大君や睿宗の息子に要職を与え彼らを宥めた。 夫の意思を継いで朝鮮の国力を強化した慈聖大王大妃は、1476年、成宗の親政開始に伴い摂政を退き、1483年、数え年の65歳で薨去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「貞熹王后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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