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貢女(、コンニョ)は、一般に女性を朝貢品の1つとして献上することである。朝鮮時代においても続いていたが、ここでは高麗からの場合を説明する。 ==概要== 高麗時代の献上先は蒙古(元)、契丹、明であり、貢女だけでなく多くの朝貢を強いられていた。 貢女は高麗時代に始まったもので、新羅を含む以前の時代には確認されていない。以下に高麗史からの資料を示す。1番目の資料は結婚都監(:ko:결혼도감)を置き、140名の貢女を行い、2番目は貢女確保のために国中の婚姻が禁止されて、3番目に資料では寡婦處女推考別監()という役所を設け組織的に対応していることがわかる。 * 高麗史 元宗3、世家第27 高麗史27 元宗15年(1273年)3月 :: 壬寅 元遣蠻子〔蠻子(蛮子)とは南宋の漢人部隊〕媒聘使肖郁來中書省牒云 "南宋襄陽府生券軍人求娶妻室 故差委宣使肖郁押官絹一千六百四十叚前去下高麗國令有司差官一同求娶施行" 肖郁令選無夫婦女一百四十名 督之甚急於是置結昏都監 自是 至秋窮搜 閭井獨女逆賊之妻 僧人之女 僅盈其數怨咨大興例給一女資粧絹十二匹〔匹は2反。従って12匹は24反となる。〕分與蠻子蠻子卽率北還哭聲震天觀者莫不悽 * 高麗史 十六 世家巻第二十八 忠列王一 忠烈王元年(1275年)冬の条 10月 :: 癸未 遣僉議贊成事兪千遇如元賀正告改官制獻處女十人. * 高麗史 十六 世家巻第二十八 忠列王一 忠烈王2年(1276年) ::甲子 元遣楊仲信齎幣帛來爲歸附軍五百人聘妻 王遣寡婦處女推考別監正郞金應文等五人於諸道先是慶尙道屯邊官軍頭目申中書省曰: "高麗人無時乘驛致其疲弱設有他變恐不及時." 中書省移牒禁之始立剳子色應文等各受鋪馬剳子以行. 1332年、忠粛王は元朝の衰えとともに、元朝への貢女を廃止している。 なお、貢女でありながら、王后(妃)となった女性に : *奇皇后(生没年不詳):14世紀の元朝最後の皇帝である順帝トゴン・テムルの皇后、後の粛良台 完者忽郡 : *権賢妃(? - 1410年):明の成祖・永楽帝(朱棣)の寵姫〔厳密には高麗時代ではない。〕 などがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「貢女」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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