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貨幣法(かへいほう、明治30年3月29日法律第16号)とは、戦前の日本で、金本位制を基本とした、貨幣の製造および発行に関する事項を定めた法律である。1897年(明治30年)施行。 この法律は通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律施行に伴い、1988年(昭和63年)3月末を以て廃止された。すなわちこの時点で、貨幣法により規定された本位貨幣の金貨が廃止となった。 == 制定の背景 == 明治4年5月10日(グレゴリオ暦1871年6月27日)に新貨条例(太政官布告第267号)が公布され、日本は金本位制を基本とする近代貨幣制度がスタートした。しかしながら、1.5グラムの純金を1圓と定めた旧金貨は、金準備の不足から発行が少量にとどまった上に貿易赤字と世界的な銀安のため、1897年までに発行された金貨は総額にして約81%が日本国外に流出した〔大蔵省監査局編著 『銀行営業報告』 第13次〜29次、大藏省理財局、1890〜1904年〕。一方で幕末から墨銀(メキシコドル)が多量に日本国内に流入し、また東洋において貿易取引の決済は銀貨が中心であったことから、貿易一圓銀貨の発行高が伸び、1878年(明治11年)5月27日の太政官布告第12号により、貿易一圓銀貨は日本国内でも金貨と等価に無制限通用が認められたために、事実上の金銀複本位制となった〔大蔵省 『明治三十年幣制改革始末概要』 1899年 近代デジタルライブラリー 〕。1885年(明治18年)5月9日からは日本銀行兌換銀券が発行され、実態はほとんど銀本位制であり、金本位制は名目化していた。 また、アメリカ合衆国におけるネバダ銀鉱の大幅な増産を始め、当時世界的に銀の供給が著しく増大し国際的に銀相場は下落傾向にあった〔大蔵省理財局 『幣制改革参考書』 1897年 近代デジタルライブラリー 〕〔『日本の貨幣-収集の手引き-』 日本貨幣商協同組合、1998年〕。そのため、明治初期に金銀相場が1:16であり、新貨条例に基づく金貨および銀貨の金銀比価1:16.01もこれに準じていたものが、銀価の下落により次第に乖離を生じるようになった。各国の銀本位制からの離脱、金本位制への移行はこれに拍車を掛けた。1894年には遂に金銀相場が1:32.56となり銀価は明治初期の頃と比較して相対的に半値に下落した〔『明治大正財政史(第13巻)通貨・預金部資金』 大蔵省編纂、1939年〕。これに伴い事実上の銀本位制であった日本円の価値はほぼ半値に下落して日本国内の物価は高騰し国民生活および国家財政が圧迫されるようになり、貿易にも支障をきたすようになった。 当時の世界の主要な国々が金本位制を採用し銀貨の自由鋳造を廃止していく実情に鑑み、日本円を安定させるには名実共に日本も本格的な金本位制を整えるべきとの気運が高まり、政府は閣議を経て1893年(明治26年)10月14日に貨幣制度調査会を設置した。貨幣制度調査会では明治初期からの日本国内の金貨および銀貨の流通状況、世界の金本位制あるいは銀本位制を採用している主要国の金貨および銀貨の製造および流通状況、および金銀価格の変動の原因が調査された。その結果、銀本位制の国家は、一時的に輸出需要が増大し農業および商工業において好況となるが、一方で輸入は困難となり物価は騰貴し国費も増大すると云うものであった。結論として円安に伴う輸出による利益は一時的なものにとどまるのに対し、長期に亘る影響を考えるならば通貨の安定こそが国益につながると云うものであった。調査会の委員20名の内、8名は幣制改革の必要あり、必要なしとする者は7名であった。幣制改革を必要とするものの内金本位制とすべきとの意見は6名、金銀複本位制とすべきとの意見は2名であった〔〔貨幣制度調査会 『貨幣制度調査会報告』 1895年 近代デジタルライブラリー 〕。しかし金本位制を実施するためには巨額の金準備を必要とし、当時日本には必要な金準備を整える見通しがなかった。 そのような中、金準備を整備する好機が訪れることとなった。日清戦争の勝利により、1895年(明治28年)4月17日、下関条約において清国より軍費賠償金として銀二億両、三国干渉による遼東半島還付報償金として銀三千万両、威海衛守備費償却金として銀百五十万両を得ることとなった。銀一両は579.84グレーンの純銀に相当し、日本は金本位制の採用を切望していたため賠償金を金で受取ればその目的が達成されるとし、当時大蔵大臣であった松方正義は1895年(明治28年)5月、金で受取るとした草案を内閣総理大臣の伊藤博文に提出した。この結果、賠償金の合計銀231,500,000両は、英国金貨38,082,884ポンド15シリング6.5ペンスに換算され、分割して1895年(明治28年)11月16日〜1898年(明治31年)5月7日の間に受取ることとなった〔。この結果、日本は物価を安定させるため金本位制を主軸とした幣制改革を行う運びとなった。 1897年(明治30年)2月25日、内閣総理大臣兼大蔵大臣の松方正義は金準備が整ったとして貨幣法およびその付属法案を閣議に提出した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「貨幣法」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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