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賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日(安政2年1月2日) - 1931年(昭和6年)1月1日)は、明治期から昭和初期の医師。日本陸軍軍医で日本に耳鼻咽喉科学をもたらした。歌人として常盤会を開催する。遠江国の出身。 == 経歴 == 1855年2月18日((旧暦)安政2年1月2日)、遠江浜松藩の藩医賀古公斎の一子として生まれ、明治維新後の転封に伴い千葉県市川に転居した〔「電気通信大学紀要16(1)」 P55「歌人としての賀古鶴所─「鴎外の親友」の文学的素養 内景二」の項(電気通信大学 2003年7月31日)〕。1870年(明治3年)藩主井上正直の命により江戸に遊学し箕作秋坪の塾に学び、第一大学区医学校に入学し陸軍依託生として1881年(明治14年)同じ陸軍軍医になる菊池常三郎・森林太郎(鴎外)・小池正直等と東京大学医学部を卒業し〔「東京帝国大学一覧 従明治20年至明治21年」 P255「医学士 明治14年卒業」の項(東京帝国大学)〕〔「日本人名大事典(新撰大人名辞典)復刻版 2巻」 P34「賀古鶴所」の項(下中邦彦編 平凡社 1979年)〕、直後に陸軍軍医に任官した。賀古は森林太郎より7歳年長で入学は2年早かったが、何らかの理由で進級が遅れ同期卒業となり、寄宿舎では同部屋であったことから林太郎は賀古を友として終生信頼した。なお、鴎外を陸軍軍医に勧めたのは賀古と言われている。1922年の鴎外の死にあたって、遺言の口述筆記にたずさわる。鴎外の遺志に反して、死後は森家の遺族に冷淡であったと鴎外の娘・小堀杏奴は賀古に対する不信をその著書に書き記している。 大学卒業後暫く東京大学医学部緒方正規に師事し細菌学を学び、陸軍軍医学校教官を拝命すると細菌学を教え、その後内務卿山県有朋の知遇を得て、1888年(明治21年)山県渡欧の際同行し、賀古は翌年までドイツに留まりベルリン大学で耳鼻咽喉科学を修めた〔〔。帰国後は、日本で最初の近代医学に基づく耳鼻咽喉科医師として、復職した軍医学校で教えると共に日本赤十字社病院(日赤病院)において耳鼻咽喉科外来診察を受け持った〔。1896年(明治29年)日本の精神科の開拓者で東京帝国大学医科大学(明治20年学制改制により東京大学医学部より変更)教授であった榊俶(さかき はじめ)が食道癌に罹った際、賀古が東京慈恵医院医学校教授金杉英五郎と共に日赤病院部長として手術を執刀した。なお、この間1894年(明治27年)歩兵第三連隊付き軍医として日清戦争に従軍した。 優秀な医師が不足していた当時、軍医が個人で医院を開業することが許されており(1899年(明治32年)正式に開業が禁止された)、1892年(明治25年)賀古も神田小川町に『賀古耳科院』を開業した〔。1896年(明治29年)、賀古は第5師団軍医部長を命じられたが東京を離れることを嫌い退職を願い認められ予備役に編入、賀古耳科院の経営に専心した〔。ただし、1904年(明治37年)日露戦争に際しては山県有朋の申し出により軍医に復し従軍した。 1931年(昭和6年)1月1日脳溢血により急逝する。軍医としての最終階級は軍医監(明治30年軍制改革前の階級で大佐相当)であった。 賀古は上総の軽井沢と呼ばれる日在(現千葉県いすみ市)に別荘『鶴荘』を持っていたが、その隣に鴎外の別荘『鴎荘』があり、同地には野間清治・石井菊次郎・与謝野晶子等の別荘もあったと伝えられる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「賀古鶴所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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