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賀若誼(がじゃくぎ、520年 - 596年)は、中国の西魏から隋にかけての武人。字は道機。本貫は河南郡洛陽県。 ==経歴== 北魏の右衛将軍の賀若統の子として生まれた。功臣の子として、容城県男の爵位を受けた。直閤将軍・大都督・通直散騎常侍・尚食典御に累進した。 宇文泰が関中に拠ると、賀若誼はその側近として召された。杏城に使者として訪れ、柔然の部族に利害を説いて帰順を勧め、1万人あまりを降伏させた。北斉の舎人の楊暢が柔然と同盟しようと送られると、宇文泰は北斉と柔然の連合を恐れて、賀若誼を使者として柔然に送った。賀若誼は多大な利益を約束して、柔然を信用させると、柔然は西魏と同盟し、楊暢の身柄を捕らえて送った。宇文泰はこれを喜んで、賀若誼を車騎大将軍・儀同三司・略陽公府長史に任じた。 557年、北周が建国されると、司射大夫の位を受け、霸城県子に改封され、左宮伯に転じた。559年(武成元年)、開府儀同三司の位を加えられた。後に霊州刺史・邵州刺史・原州総管・信州総管を歴任して、有能で知られた。兄の賀若敦が金州総管となり、讒言を受けて処刑されると、連座して免職された。 武帝が親政をはじめると、賀若誼は召されて熊州刺史に任じられた。北斉平定の戦いに参加し、兵を率いて函谷関を出て、洛陽を占拠すると、洛州刺史に任ぜられ、建威県侯に進んだ。北斉の范陽王高紹義が突厥に逃れると、賀若誼はこれを追撃し、馬邑で戦って、高紹義を捕らえた。功績により大将軍の位に進んだ。 580年(大象2年)、楊堅が丞相となると、賀若誼は亳州総管に任ぜられ、西は司馬消難の乱を防ぎ、東は尉遅迥の乱をはばんだ。申州刺史の李慧が乱を起こすと、賀若誼はこれを討った。爵位は范陽郡公に進んだ。 581年(開皇元年)、隋が建国されると、上大将軍の位を受けた。583年(開皇3年)、右武候将軍となった。河間王楊弘が突厥に北征すると、賀若誼は副元帥をつとめた。凱旋すると、左武候大将軍に転じた。事件に連座して免職された。1年あまりして、華州刺史に任ぜられた。敷州刺史に転じ、海陵郡公に改封され、また涇州刺史に転じた。592年(開皇12年)、賀若誼は霊州総管・霊州刺史となって突厥を牽制した。位は柱国に進んだ。老年になっても、筋力が衰えず、重い鎧をつけて馬に乗ることができた。数年後、隠退を願い出て許された。 郊外に別荘を構え、樹木を植え、賓客を迎えては女楽を催して遊んだ。596年(開皇16年)2月、家で死去した。享年は77。諡を威といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「賀若誼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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