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賓陽作戦(ひんようさくせん)とは、日中戦争中の1940年(昭和15年)1月28日から2月13日までの間、広西省の南寧・賓陽付近で行われた日本軍の作戦である。日本軍第21軍が、南寧方面に攻勢をかけた中国軍を撃退した。中国側の呼称は桂南会戦〔「桂南会戦」は南寧作戦から崑崙関の戦い、賓陽作戦までの一連の戦いを指す。〕。 == 背景 == 1939年(昭和14年)12月、日本軍が占領した南寧を奪回するため、中国軍は25個師の兵力を投入して攻勢を仕掛けてきた。特に、崑崙関(南寧北東50キロ)に対する猛攻により、第5師団の戦況は悪化していった。この時、第21軍の主力は広東省で「翁英作戦」を展開していたが、苦境に陥った第5師団を救援するため作戦を打ち切り、部隊を南寧方面へ転用させることにした。一方、南寧の奪回を重視している蒋介石は、1月7日に自ら桂林へ飛び、1月10には遷江(賓陽の北約50キロ)の第16集団軍司令部にやって来て作戦を指導した(12日に重慶へ帰還)〔『支那事変陸軍作戦(3)』、84頁。〕。 1月7日から13日までに、近衛混成旅団と第18師団は欽州へ海上輸送された。欽寧公路(欽州―南寧)は東西から中国軍(第31軍、第41軍)の妨害を受けていたが、日本軍の掃討作戦によって機能を回復し、作戦開始前までに必要な補給物資を南寧に集積することができた。第5師団の及川支隊は、崑崙関攻防戦後も軍主力が集結するまで、八唐付近で防御戦闘を続けていた。1月22日、近衛混成旅団と第18師団はそれぞれ指定の位置に到着した。賓陽作戦の目的は、「南寧付近に集まった敵を賓陽以南の地区で殲滅する」こととされた〔〔越智、215頁。〕。 中国空軍は南寧方面への攻勢に際し、約100機の航空機を桂林・柳州に展開し地上攻撃作戦を行っていた。日本側は、陸軍飛行隊が地上部隊の直接共同を担当し、1月10日には海軍の第三連合航空隊が桂林・柳州の中国軍飛行場を攻撃して制空権を獲得していった〔『支那事変陸軍作戦(3)』、79頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「賓陽作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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