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赤い夏 : ミニ英和和英辞書
赤い夏[あかいなつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あか, あけ]
 (n) 1. red 2. crimson 3. scarlet 4. communist
赤い : [あかい]
 【形容詞】 1. red 2. turn leftist, become radical
: [なつ]
  1. (n-adv,n-t) summer 

赤い夏 : ウィキペディア日本語版
赤い夏[あかいなつ]

赤い夏英語:Red Summer)は、アメリカ合衆国の36以上の都市において1919年の夏から初秋におこった人種暴動事件である。多くの場合、白人がアフリカ系アメリカ人を襲った。いくつかの都市では多くの黒人が反撃し、特にシカゴワシントンD.C.アーカンソー州Elaineでは多くの死者を出した。
〔''New York Times'': "For Action on Race Riot Peril," October 5, 1919 , accessed January 20, 2010. This newspaper article includes several paragraphs of editorial analysis followed by Dr. George E. Haynes' report, "summarized at several points."〕
暴動は第一次世界大戦で、軍人の除隊後の戦後の社会不安に引き続いて起きた。白人も黒人も人種間で仕事への就職を争ったのである。 人権活動家であり、著作家であったJames Weldon Johnsonは"赤い夏"という言葉を造語した。彼は1916年より 全米黒人地位向上協会 (NAACP) という団体の地方書記(field secretary)として雇用されたが、その団体の憲章を作り、また改めたりした。 1919年に, 彼は人種暴動にたいし平和的に抗議すべきであると訴えた。〔Alana J. Erickson, "Red Summer" in ''Encyclopedia of African-American Culture and History'' (NY: Macmillan, 1960), 2293-4〕〔George P. Cunningham, "James Weldon Johnson," in ''Encyclopedia of African-American Culture and History'' (NY: Macmillan, 1960), 1459-61〕
==事件の背景==
第一次世界大戦の軍隊としてのマンパワーの動員があったことと、ヨーロッパからの移民がなくなり、アメリカ北部中西部の工業都市は深刻な労働力の減少をきたした。北米の製造者たちは南にむかって人員を募集し、南部からの脱出(英語:Exodus)が始まった。
〔 1919年までに, 推定 500,000人のアフリカ系アメリカ人が米国南部から北と米国中部の工業都市にアフリカ系アメリカ人の大移動として移動し、それは1940年まで続いた。
〔彼らはまた悪名高い 私刑ジム・クロウ法、から逃れようとしていた。農業が多い米国南部の特権的で貧弱な経済があり、 boll weevilという害虫が木綿を食い荒らしていた。 アフリカ系アメリカ人は鉄道などの成長産業とか、今まで白人が占めていた職業を奪ってきたのである。ある都市では彼らは1917年のストライキでストライキ破りとして雇われたのである。〔David M. Kennedy, ''Over Here: The First World War and American Society'' (NY: Oxford University Press, 2004), 279, 281-2〕 このことは、白人の労働者階級、移民、など最初の世代のアメリカ人たちの憤激を買った。第一次大戦戦後、労働力市場を考慮しない軍人の除隊と、物価価格コントロールがないこと、失業、インフレーションなどは就職競争を増大させた。
最初の1919-1920年の 赤狩りの間、 ロシア革命に引き続いて、米国において 反ボリシェヴィキ感情がおき、戦時中の反ドイツ感情に置き換わった。多くの政治家や政府の官僚は、多くのマスコミや一般公衆と共に、米国政府を倒して ソビエトの如き、新しい政府を建てるのではないかと危惧した。当局はアフリカ系アメリカ人による人種の平等、労働権、暴徒の被害者が自衛する権利といった主張を不安をもって見た。1919年3月、私的な会話において時のウッドロウ・ウィルソン大統領は「アメリカの黒人が外国から帰って ボリシェヴィキ主義をアメリカにもたらすだろう」と述べた。〔McWhirter, 56〕 他の白人は色々な意見を述べたが、ある者はいつか解決するだろうとし、ある者は緊張の兆候はないと述べた。〔McWhirter 19, 22-4〕
1919年年頭に, George E. Haynes博士は(教育者であり米国労働省に勤務する黒人の経済の指導者)、「黒人の軍人が一般生活に帰る事は、北部にせよ、南部にせよ、この国にとって大変微妙な、そして難しい問題となる」と述べた。〔McWhirter, 13〕 一人の黒人の退役軍人はシカゴディリーニュースに投稿して、「黒人の退役軍人は帰国して今や新しい男、世界の男になった。その方向性、指導、正直な使用への可能性と、パワーには制限がない。彼らは指導されるべきであり、導かれるべきである。 彼らは目覚めてしまった。しかしその覚醒は、完全に自覚があるものには達していない」と述べた。〔McWhirter, 15〕
W・E・B・デュボイス (英語:W. E. B. Du Bois) は、 全米黒人地位向上協会 の役員でありそ月刊誌の編集長であるが、次のように述べた。「我々は次の様な機会に会っている。戦争が終わり、我々の土地で厳しい地獄の勢力に対抗して戦争をするためには、我々の脳や筋肉を未だ整理していないのである。そして、天の配剤で、我々は臆病でありとんまである」。5月に最初の民族間暴動が起こった後、彼はエッセイ、「帰ってきた兵士」を書いた。〔McWhirter, 31-2, emphasis in original〕


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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