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山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。 == 生涯 == === 家督相続 === 応永11年(1404年)5月29日、山名時熙の3男として生まれる。同20年(1413年)、10歳で元服、4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊〔「豊」の字の由来は不明だが、持豊の子孫にはこの字を用いる者が多数見られ、山名氏の通字の1つと化している。〕 を名乗る。同28年(1421年)12月、初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高(ひろたか)と共に備後国人の討伐に向かい、翌29年(1422年)に京都へ戻った。 応永27年(1420年)に長兄満時が死去し、永享3年(1431年)5月には次兄持熙が6代将軍足利義教の勘気を受けて廃嫡されたため、永享5年(1433年)8月9日に家督を相続、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。病気がちの父に代わって義教に仕え、永享7年(1435年)には父が死去、同9年(1437年)には持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する。永享11年(1439年)、正四位下左衛門佐に任官し、翌12年(1440年)には幕府侍所頭人兼山城守護となる〔小川、P36 - P46、川岡、P16、P19 - P32。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山名宗全」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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