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赤坂小梅 : ミニ英和和英辞書
赤坂小梅[あかさか こうめ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あか, あけ]
 (n) 1. red 2. crimson 3. scarlet 4. communist
: [さか]
 【名詞】 1. slope 2. hill 
: [うめ]
 【名詞】 1. (1) plum 2. Japanese apricot 3. prunus mume 4. (2) lowest (of a three-tier ranking system) 

赤坂小梅 : ウィキペディア日本語版
赤坂小梅[あかさか こうめ]

赤坂 小梅(あかさか こうめ、1906年4月20日 - 1992年1月17日)は、昭和時代に活躍した日本芸者歌手
== 経歴 ==
本名:向山 コウメ福岡県田川郡川崎町出身。九人兄姉の末娘に生まれた。生後10日目に母を失い、長姉によって育てられる。
幼少時から芸事が大好きで花街の歌声や三味線の音色を聞きながら育ったという。
1920年16歳のときに自分の意思で芸者になった。この時代自分から芸者になることは大変珍しく、周囲の人間は猛反対したが、どうしても芸者になりたかったという。
小倉の旭検番より芸妓名「梅若」で初座敷、美声と気風の良さで知られた。明け方に座敷がはねた後、朝、船に乗って朝鮮に遊びに行ったなどという逸話も残っている。
1929年福岡を訪れた中山晋平野口雨情ら音楽関係者らが料亭で彼女の歌を聞き、その美声に驚嘆した。
梅若の才能を認めた作曲家藤井清水の紹介でビクターに「小倉節」など新民謡を、小倉旭券梅若の名義で数曲吹き込む。
1931年上京。後援者清水行之助の紹介で赤坂若林から赤坂小梅と改名、お披露目をして鶯芸者としてならした。ビクターから、赤坂小梅名義でも「別府待っちょる節」「豊後風景」などの新民謡を数曲吹き込んでいる。
1933年3月にコロムビアに専属入社。5月に古賀政男が作曲した「ほんとにそうなら」でデビューするやたちまちヒットした。
1934年にも江口夜詩作曲の「そんなお方があったなら」がヒットし歌手としての不動の地位を築いた。「晴れて逢う夜は」「ゆるしてネ」等もヒット。また、この頃には「登別温泉小唄」「加賀小唄」など新民謡も多く吹き込んでおり、現地では盛んに唄い踊られていた。
1936年長唄三味線の演奏家杵屋勝松と結婚、長男を出産したが、夫とは1938年に死別している。
この時期になると、戦時歌謡や民謡を多く吹き込むようになった。全国人気の歌手の中で、「炭坑節」を最初にレコードに吹き込んだのが赤坂小梅である(地元芸者の前例はある)。小梅が戦前に吹き込んだ炭坑節は現在全国的に知られている節回しではなく、筑豊地方の花柳界で唄われていた節回し「座敷唄」であった。1948年年には和洋折衷伴奏で再吹込みしたが、これは各社競作となった。小梅、音丸(キング)、美ち奴(テイチク)、日本橋きみ榮(ポリドール)の競作であったが、この中で小梅だけが「座敷唄」の節で唄っており、残る3名は皆、現在盆踊り等で親しまれている節で唄っている。結果的に美ち奴やきみ榮に水をあけられてしまったが、後に小梅も盆踊り向きの節で再度ステレオ録音にて吹き込んでおり、その音源は盆踊りで盛んに用いられた。
1942年には出身地福岡県の民謡「黒田節(筑前今様)」を初めてレコード化した。当初は「黒田武士」と表記していた。「皇御国のもののふは…」の文句が戦意高揚につながるとして、戦争が激化してもこの歌は盛んにもてはやされ、小梅自身もたびたびステージや放送で歌った。戦後は「黒田武士」をもじって「黒田節」の名で再吹込み、その後も数度吹き込み直し、その度にレコードがヒットした。「小梅の黒田節か、黒田節の小梅か」とまで呼ばれ彼女の生涯の代表曲となった。小梅自身もこの歌に思い入れがあり、自作の歌詞を2番で唄った「祝い唄 黒田節」は民踊の定番として親しまれた。
1950年には「おてもやん(熊本甚句)」がヒットし、「黒田節」や「炭坑節」と並ぶ代表曲となった。1950年の吹き込みは2回目であり、1回目の吹き込みは1935年である。しかし、当時はあまり話題にならなかった。その後、ステージ等で「おてもやん」を披露すると大変に受けがよいので、満を持して1950年になって伴奏等をアレンジし直して、吹き込まれたものである。当時の聴衆は、ふくよかで愛嬌のある小梅の姿を「おてもやん」に重ねてイメージしたので、「おてもやんといえば小梅」というのが一般的であった。しかし小梅の「おてもやん」は、方言や三味線の節が地元熊本のものとはやや異なっていたので、地元から非難の声も出た。
小梅の民謡は現地に赴き土地の古老、研究者に手とり足とり口移しで教わったものを基調にしているが、それを小梅流にアレンジして歌い直したものが多い。これにより、民謡をより大衆にわかりやすく、また親しみやすいものにすることに成功し、メディアにうまく乗せることができたわけであるが、その分地元のものとは節回しや方言の使用などで少し差が生じることになり、そのことで批判の声があがる場合もあったのである。小梅の場合は特に「おてもやん」で非難されたが、これは小梅に限ったことではない。喜代三は「鹿児島小原良節」、市丸は「伊那節」、勝太郎は「おけさ踊り」「会津磐梯山」で、それぞれ地元から非難されたことがあった。
地元から非難されることもあったが小梅の人気は戦後になっても高水準を保ち、全国各地の民謡の吹き込みを続けた。「田原坂」「男なら」「きんきらきん」「鶴崎踊り(猿丸太夫)」「よへほ(山鹿温泉小唄)」「稗搗き節」「鹿児島浜節」「ぶらぶら節」「ソーラン節」などである。「ぶらぶら節」は長崎丸山の芸者・愛八から直接習ったもので、全国人気の歌手としては小梅が初めて吹き込んだものである。また「稗搗き節」は、椎葉村で唄われた元唄に比較的近い唄い方のレコードと、花柳界で唄われた唄い方のレコードと、両方を残している。
1956年には久留米で唄われていた機織り唄をアレンジした「そろばん踊り」を吹き込み、ヒットしている。これは、小梅が元唄を知っており吹き込みを希望したのだが、歌詞が適当でなかったために、新作の歌詞を乗せ、さらに久留米言葉のセリフを挿んだものである。元唄の方も「チャンリキ節」などと呼んでそれなりに知られており、美ち奴がレコード化したこともあった。しかし小梅の「そろばん踊り」が人気を呼んでからは「チャンリキ節」は忘れられてしまっている。民謡の吹き込みは、SP盤の時代からEP・LPの時代に変わっても相変わらず続けていた。
声量が大変豊かで音域も広く、特に太い低音が大変美しく豪快な歌いっぷりは繊細な小唄勝太郎とは対照的だった。
1933年頃、勝太郎と市丸は大変な人気で「市勝時代」などと言われたものだが、小梅も大変人気を呼び、先の二人と合わせて「鶯芸者三羽烏」などと言われた。
日本酒を一晩に三升呑んでも大丈夫というほどの酒豪で麻雀は大好きだが弱く、他人の悪口は決して言わず、おおらかで太っ腹な性格だった。
戦後には流行歌の吹き込みは少なくなったが、相変わらず民謡を次々に吹き込み、人気は衰えるどころか民謡愛好家の間でもその名声は高まるばかりであった。
岸信介佐藤栄作などの著名人のお座敷も多数つとめ、NHK紅白歌合戦にも初期に4回出場した(詳細は下記参照)。
昭和40年代におこったナツメロブームによって東京12チャンネルの「なつかしの歌声」などにもたびたび出演してその美しい喉を披露した。また、コロムビアでも「黒田節」「おてもやん」など往年吹き込んだ民謡をステレオ録音で吹き込み直すなど、民謡、舞踊小唄、端唄などを本格的に研鑽、レコーディングした。1973年文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
彼女の最大の功績は民謡をラジオ、テレビなどのメディアに紹介し、大衆音楽の中に「民謡」というジャンルを確立したことである。
その功績が認められ、1974年には紫綬褒章、1980年には勲四等宝冠章を受章した。
1981年4月21日に東京三宅坂の国立小劇場で開催された「感謝引退記念公演」を最後に芸能生活六十年、歌手生活五十年という長い経歴に幕を下ろした。
引退後は千葉県館山市布良の安房自然村に引越し、「小梅民謡教室」を開くなど悠々自適の生活を送った。
1992年1月17日午後7時24分、心不全のため千葉県鴨川市の病院で亡くなった。享年85。
戒名は「芸鏡院梅月麗峰大姉」。葬儀は千葉県館山市の能忍寺にて執り行われた。
彼女の生誕100年を記念し、2007年春には出身地(福岡県川崎町)で制作されたドキュメンタリー映画『小梅姐さん』 (監督:山本眸古)も完成している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「赤坂小梅」の詳細全文を読む




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