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赤坂(あかさか)は、福岡県北九州市小倉北区の地名。現行行政町名としては赤坂1丁目-5丁目および北に隣接する赤坂海岸(あかさかかいがん)がある。現在は閑静な住宅地だが、古くは赤間関(本州)との渡し場であり、また豊前小倉藩の鬼門(東北)の守りである延命寺の門前町としての性格も持っていたため、江戸時代まで大いに繁栄した。 郵便番号は802-0032(赤坂1-5丁目)、802-0031(赤坂海岸)。 == 地理 == 赤坂は小倉北区の東北端で門司区との区境に位置する。現在の赤坂の地形は、西側(小倉側)と東側(門司側)とで異なる。西側は延命寺川を中心とする扇状地の右岸から成り、かたや東側は足立山系を背とする丘陵地から成る。 現在赤坂は、小倉市街地に近い順に(西から東へ)、1丁目が延命寺川沿いの扇状地、2丁目が扇状地並びに鳥越峠西側斜面から赤坂山(延命寺山、弾正山。かつて延命寺が置かれていた。現在の妙法寺付近)に続く丘陵地、3丁目が鳥越峠並びにここから赤坂山-手向山の間に下る小渓谷、4丁目が手向山となっており、これら1~4丁目の北側を東西に走る国道3号を挟んだ北側の旧海岸線並びに埋立地(厳密には国道3号によって削り取られた手向山の海側にせり出したわずかな部分も含まれる)が5丁目、5丁目のさらに北側を東西に走る国道199号を挟んださらに北側の埋立地が1965年(昭和40年)に完成した赤坂海岸である。 本来、江戸時代から1889年(明治22年)までの企救郡赤坂村があった場所は、延命寺川河口の海岸線一帯(主として現在の赤坂5丁目と高浜2丁目に相当する)であった。残る扇状地の大部分(主として現在の赤坂1丁目と2丁目の一部に相当する)はかつて富野村に属し、丘陵地(現在の赤坂3、4丁目に相当し、手向山も含まれる)は、かつて鳥越(とり越え)と呼ばれていた。現在、延命寺川の扇状地の右岸は赤坂に組み入れられており、川を挟んで赤坂と上富野が向かい合っている。また、鳥越も赤坂に組み入れられその地名は失われたが、北九州高速道路4号線のトンネル・鳥越隧道、同陸橋・鳥越橋、 西鉄バスの鳥越バス停(門司区西新町)などに名前が残されている。このように現在の赤坂は、かつての赤坂村、富野村(の延命寺川右岸)、ならびに鳥越から成っている。 足立山系の鳥越の丘陵地が手向山となって海岸に迫っている辺りは江戸時代まで交通の難所であった。このことは現在でも、小倉市街地と門司市街地とを結ぶ幹線のすべて(海側から順に国道199号、JR鹿児島本線、国道3号の手向山隧道、北九州高速道路4号線の鳥越隧道)が、手向山を南北に挟んだ直線にして約600メートルの距離に集中し、とくに山側の後二者はトンネルとなっていることから窺い知ることができる。しかも、かつては路面電車(旧西鉄北九州線)も国道3号の手向山隧道を通過しており、これは西鉄北九州線の唯一のトンネルであった。 また、赤坂の地名の由来は、鳥越峠の西側の斜面(現在は北九州市立桜丘小学校が建っている)がかつて赤土であり、これがかつて赤坂の渡し場のランドマーク(海から見た陸上の目印)であったという説が有力である。 赤坂山から鳥越峠に至る高台(現在の2~3丁目)は風光明媚で下関、彦島、巌流島、関門海峡、関門橋、壇ノ浦、響灘、小倉市街地、若戸大橋、皿倉山、遠くに玄界灘を一望することができる(昭和40年代まで延命寺八景園という町名があった)。このように小倉の城下町を一望に見下ろす鳥越峠付近は地政学的に要害の地であり、長州戦争(小倉戦争、豊長戦争)における初期の激戦地となった(赤坂の戦い)。 ちなみに、鳥越隧道の小倉側の北九州高速道路4号線上り線にあるパーキングエリアは、日本屈指の小さいパーキングエリアである(富野パーキングエリア、北九州市小倉北区赤坂1758-8)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤坂 (北九州市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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