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赤城 宗徳(あかぎ むねのり、1904年(明治37年)12月2日 - 1993年(平成5年)11月11日)は、日本の政治家、教育者、剣道家。衆議院議員。栄典は正三位勲一等、永年勤続議員表彰。剣道範士。 農林大臣、内閣官房長官、防衛庁長官等を歴任。農林水産大臣を務めた赤城徳彦元衆議院議員は孫。親戚に元経団連会長・稲山嘉寛がいる。 ==来歴・人物== 茨城県真壁郡上野村(後の明野町、現在は筑西市)の代々名主をつとめた家に生まれる。若くして父康助〔http://kingendaikeizu.net/seizi/akagi.htm〕を失い母むめと祖父喜八郎に育てられる。 1927年に東京帝国大学を卒業。地元の上野村村長を経て、1937年衆議院議員に立候補し当選する。しかし、その翌年「当選無効」となり、衆議院議員を失職する〔「議会制度百年史 院内会派編衆議院の部」〕。1942年の翼賛選挙で大政翼賛会の推薦を受け再選する。当選後、岸信介率いる護国同志会、その後は日本協同党に所属して活動するが、戦後、公職追放を受ける。その最中に行われた1947年の第1回統一地方選挙では妻のヒサが上野村長に当選し、全国で4人生まれた女性首長の一人となった〔この統一地方選挙で夫の公職追放後に妻が立候補して首長となった例は、他に岐阜県本巣郡瑞穂村(1948年から瑞穂町)の松野友がいる。ヒサの退任時期は不明だが、上野村が1954年に合併に参加して明野町となった後には同町長にはなっていない。出典:「都道府県市区町村」女性首長の一覧〕。 1952年、第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補し当選。政界に復帰後は吉田茂政権打倒に動き、1954年自由党を離党し鳩山一郎を総裁とする日本民主党に参加した。その後、1955年、保守合同にともない自由民主党に参加、岸派に属した。 1957年、第1次岸内閣の農林大臣として初入閣する。農相に就任した赤城を待ち受けていたのが日ソ漁業交渉であり、赤城は、イシコフ・ソ連漁業大臣との間に「100日漁業交渉」と呼ばれる激烈な交渉を繰り広げた。この漁業交渉がきっかけとなって、後年赤城は日ソ親善協会会長をつとめる。第2次岸内閣で内閣官房長官、そして、日米安保条約改定をめぐる政局では、1959年第2次岸内閣改造内閣にて主務大臣である防衛庁長官に就任する。1960年、安保闘争に際して反対する数万人規模のデモが連日国会を囲む中、首相岸信介に自衛隊の治安出動を打診されるが、“自衛隊が国民の敵になりかねない”と反対したことで知られる。 1962年、岸が派閥を福田赳夫に譲る言動を取るとそれに猛反発し、川島正次郎、椎名悦三郎らと川島派を結成し岸と決別。川島派を継いだ椎名派が解散した後は三木→河本派に加わった。総務会長時には将来総理となる大平正芳官房長官に「法案の閣議決定の前に総務会にご連絡願いたい」という書簡を送り現状の自民党のシステムを作った。1971年、第3次佐藤内閣改造内閣でも農林大臣をつとめる。1976年の総選挙で落選するが、1979年に国政復帰。1990年に政界を引退し、地盤を(当時農林水産省の官僚だった)孫徳彦に譲る。1993年11月11日死去。 霞ヶ浦高等学校の校長を1956年から1990年まで務めた。1956年から1967年までは学校法人霞ヶ浦高等学校の理事長も兼務した。 平将門の研究〔『平将門』(角川選書・角川書店)、『将門地誌』(全三巻、ふるさと文庫・筑波書林、のち新編)、『私の平将門』(崙書房)を著した。〕でも知られる。他に回想記『日ソ関係を考える 激動の大正・昭和を生きて』(新時代社、1982年)と、小冊子『わが百姓の記 日本の農業と農村を想う』(筑波書林、1985年)がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤城宗徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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