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赤木春恵 : ミニ英和和英辞書
赤木春恵[あかぎ はるえ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あか, あけ]
 (n) 1. red 2. crimson 3. scarlet 4. communist
赤木 : [あかぎ]
 heartwood
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [はる]
  1. (n-adv,n-t) spring 

赤木春恵 : ウィキペディア日本語版
赤木春恵[あかぎ はるえ]

赤木 春恵(あかぎ はるえ、1924年(大正13年)3月14日 - )は、日本女優。身長152cm、血液型はB型。満州国新京特別市(現・中華人民共和国吉林省長春市)出身〔おんなのしんぶん・別所哲也:赤木春恵との本音トークを全文掲載 毎日新聞 2015年8月10日〕。オフィスのいり所属。日本喜劇人協会相談役。
本名は小田 章子(おだ あやこ)〔赤木春恵、89歳で映画初主演 ギネス大幅更新へ スポーツ報知、2013年5月4日〕。
== 来歴・人物 ==
父は南満州鉄道の産婦人科医だったが、赤木が3歳の時に死去〔。1933年(昭和8年)に帰国して京都に住み〔、女学校卒業後の1940年(昭和15年)に松竹ニューフェースとして入社し、同年に映画『二本松少年隊』でデビュー〔赤木春恵、89歳で映画初主演!ギネス認定なるか サンケイスポーツ、2013年5月4日〕。この時の芸名は赤木春生(あかぎ はるみ)であった。名付け親は映画監督の伊藤大輔〔赤木春恵『わたしの遅咲き人生』(講談社、1994年)3頁〕。
1943年(昭和18年)に大映へ移籍する。
1945年(昭和20年)2月、松竹で助監督をしていた兄が設立した慰問劇団に参加するため大映を退社し、満州各地を巡業した。この時に森光子と知り合い、森が結核で療養し音信不通となっていた時期を除いて深い親交を結んでおり、赤木は「ソウルメイトのようなものですね」と振り返っている。また、藤山寛美とも交流があった。途中で兄が現地召集されたため、劇団の座長となっている。1946年(昭和21年)10月に帰国〔。大映に復帰した際、片岡千恵蔵から「春生では男か女か分からないから春恵にしたらどうか」と勧められ、芸名を赤木春恵に改める〔。帰国後の1947年(昭和22年)に東映のプロデューサー・栄井賢(本名・小田賢五郎)〔沢島忠『沢島忠全仕事: ボンゆっくり落ちやいね』(ワイズ出版、2001年)150頁〕と結婚〔話題の人物豆知識/ワダマメドットコム 赤木春恵 〕し、一女を儲ける。1948年(昭和23年)には東映へと移籍。この際、片岡千恵蔵から大作や小品の別なく年相応の脇役を長く務めていた。
1959年(昭和34年)に森繁久彌主催の森繁劇団に参加するにあたり、フリーとなった。
特に橋田壽賀子脚本作品や、橋田の盟友・石井ふく子のプロデュースした作品への出演が多く、「橋田ファミリー(石井ファミリー)の女優」と見なさせることが多かった(橋田の作品には1974年(昭和49年)の『四季の家』に初出演して以降、『となりの芝生』『おんな太閤記』『おんなは一生懸命』『渡る世間は鬼ばかり』などに出演)。
1979年(昭和54年)には『3年B組金八先生』に校長の君塚美弥子役でレギュラー出演(レギュラー降板後もゲスト出演するほどの当たり役となり、教育関係者から講演を頼まれたほど)。
1983年(昭和58年)の著書『おばあちゃんの家事秘伝』がベストセラーになる。
1990年(平成2年)からは前述の『渡る世間は鬼ばかり』がスタートし、赤木は小島キミ役を演じる(ほぼ全部のシリーズに出演し、嫁役の小島五月役の泉ピン子をいびるシーンはドラマのウリとなった)。以降2015年までシリーズは継続され、本人は2005年に一時降板するも、最終シリーズ最終回にはレギュラー復帰した。1991年、夫が肺がんのため他界。
2007年(平成19年)秋に乳がんが見つかり、友人で同所属事務所の後輩でもある大空真弓に相談して病院を紹介してもらい、出演していた『渡る世間は鬼ばかり(第6シリーズ)』は演じていた小島キミが娘の久子が住んでいるアメリカに行く設定で一旦極秘降板して、年末に左乳房を全摘出して完治後に再び渡鬼に復帰した。(2009年(平成21年)に『徹子の部屋』で発表)。
2011年(平成23年)6月13日には、コロッケの東京・明治座7・8月舞台公演の製作発表会に座長のコロッケと共に出席して会見を開き、親交の深いコロッケの舞台を最後に「これで私の卒業公演にしたい」と舞台からの引退を宣言した(理由は「現在は健康だが、いつご迷惑を掛けるか分からない。余裕のあるときにお別れした方がいいと思った。」と述べている)。舞台エンディングでは親友の森から花束と共に届いた「戦争のつらい経験を乗り越えてきたからこそ、ここまで頑張ってこられました。いつも二人で支え合って来たわね。」という手紙を共演の熊谷真実に代読され、 「森さんの手紙がグッときました。心友(親友)なんで…。」と感極まっていた。
2012年11月10日には親友の森が死去。逝去後にはマスコミから森との思い出話などのインタビューにも応じた。12月7日に青山葬儀場で開かれた森の本葬には、ドラマ共演などが縁で森を実母のように慕って親交が深かった浅丘ルリ子と一緒に参列した。
2013年には森崎東監督の映画『ペコロスの母に会いに行く』に主演し、88歳と175日(クランクイン日の2012年9月5日時点)にして映画初主演を果たす。これは2008年に当時82歳で映画初主演を果たした菅井きんの記録を大幅に更新するもので、“世界最高齢での映画初主演女優”として、ギネス世界記録に認定された。また、映画への出演も1980年の『二百三高地』以来33年ぶりとなる。同作品では第68回毎日映画コンクール女優主演賞を受賞し〔中山雄一朗、第68回毎日映画コンクール発表!『舟を編む』が日本映画大賞 (2014年1月21日)、シネマトゥデイ、2014年1月21日閲覧。〕、2013年に俳優デビューした孫の野杁俊希に車椅子を押されて授賞式に出席している。
ちなみに「女優として様々な役を演じてきたが、殺人事件の犯人役だけは大嫌いで断り続けてきた」と発言している〔光文社「女性自身」2014年9月23日号(第57巻第34号)162頁 雑誌20304-9123〕。
2014年3月に卒寿を迎え、橋田壽賀子石井ふく子・『渡る世間は鬼ばかり』出演者らと祝いの席に迎えられるも、その席で宇津井健の訃報を知らされ、一同悲しみのコメントを述べる〔赤木春恵卒寿祝いの席に悲報…渡鬼ファミリー「涙出るいとまもない」 2014年3月14日 スポーツニッポン〕。
2015年9月、東京都内の自宅で転倒し左足大腿部を骨折。直ちに入院し、翌10月よりリハビリに専念。12月には一時帰宅できるまでに回復し、同月、自宅で森光子の追悼番組の取材に応じた。2013年頃から車椅子を常用する生活となっているが、関係者は「ナレーションや朗読劇などは問題ない」と話しており、本人もなお女優復帰を目指しているという。
私生活についてはあまり明かしていないが、夫と死別後は娘一家と同居している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「赤木春恵」の詳細全文を読む




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