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赤松則貞 : ミニ英和和英辞書
赤松則貞[あかまつ のりさだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あか, あけ]
 (n) 1. red 2. crimson 3. scarlet 4. communist
赤松 : [あかまつ]
 【名詞】 1. red pine tree 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 

赤松則貞 : ウィキペディア日本語版
赤松則貞[あかまつ のりさだ]
赤松 則貞(あかまつ のりさだ、生年不明 - 大永5年(1525年)は、戦国時代武将。官位は中務少輔。父は宇野政秀。孫に赤松村秀〔養子の説もある。高坂好『赤松円心・満祐』吉川弘文館 306頁〕。那波城主。
文明16年(1484年)、父政秀が剃髪し、以降の郡代職務を担うようになる。延徳4年(1492年)には在京していたことが確認できる。明応5年(1496年)、宗家当主政則死去に際して、浦上則宗別所則治小寺則職薬師寺貴能と共に、赤松七条家からの養子である道祖松丸(後の赤松義村)を家督に据えることの承認を幕府に求めている。その後、東西取合合戦と呼ばれる赤松家を三分する混乱状態となり、則宗の求心力が低下すると則貞の赤松下野家の影響力が拡大した。明応8年(1499年)3月、道祖松丸を連れて則宗が塩屋城の下野守家の庇護下に入ると、則貞の父政秀が上洛し、室町幕府の調停を取り付け、東西取合合戦は終結に向かう。
鵤荘引付』には大永5年(1525年)に則貞が孫の村秀(下野守)によって龍野城で殺害されたと記されている。廉直な人柄の人物である村秀が則貞殺害に至った理由は判然としないが、則貞と村秀は永正16年(1519年)に不心得者の中間の処置から合戦寸前までいくなど、赤松家内部は長らく混乱を抱えており、その対策から対立した可能性もある。
== 関連項目 ==

* 赤松村秀

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「赤松則貞」の詳細全文を読む




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