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赤松 氏範(あかまつ うじのり)は、南北朝時代から室町時代前期の武将。 赤松則村(円心)の子で、範資と貞範と則祐の弟。無双大力の勇士で父と共に各地を転戦する。だが正平5年/観応元年(1350年)1月に父が死去すると、3人の兄といずれも不仲だったことから観応の擾乱では3人の兄が北朝に与したのに対して氏範は南朝に与した。摂津中島郡と有馬郡、備前馬屋郷などに勢力を持った。文和2年/正平8年(1353年)には四条隆俊に従って足利義詮を破り、文和4年/正平10年(1355年)には山名時氏や足利直冬らと共に京都に侵攻して京都を回復するも兵糧問題から京都を放棄した。以後は南朝の中心的武将として興良親王(赤松宮、陸良親王ともいわれる。護良親王の子。母は北畠親房の娘。)を奉じ、南朝の兵力も任されるに至った。 だが延文5年/正平15年(1360年)4月25日に赤松宮が南朝に対して謀反を起こすと、氏範も赤松宮に同調して南朝に叛した。賀名生を焼き討ちするなど一時は優勢だったが、結局は南朝の追討軍に敗れたため、宮を奈良に落ち延びさせたあと、自らも吉野を去って兄の則祐がいる播磨に帰還し降参した〔『赤松円心・満祐』吉川弘文館。93頁・291頁。〕。9年後の応安2年/正平24年(1369年)10月10日、摂津中島郡において南朝に帰参して挙兵したため、足利義満の命令で兄の則祐と一族の赤松光範らによる追討を受けた。 元中3年/至徳3年(1386年)9月2日、摂津中島郡(播磨という説もある)において再度南朝として挙兵したが、幕命を受けた細川頼元や山名氏らの追討を受け、子息ら一族郎党100余名と共に清水寺にて自害した。享年57。遺骸は討伐に従軍していた甥であり惣領の赤松義則によって手厚く葬られた。 終焉の地となった清水寺に氏範らの墓がある。また、同地には「赤松氏範の切腹石」と伝わる大石も存在する。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤松氏範」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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