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赤松 満直(あかまつ みつなお)は、室町時代中期の武将。 赤松満政の子。赤松系図では赤松教政の弟とされる〔満直は幼名が次郎、教政は三郎である(『赤松円心・満祐』吉川弘文館 264頁 より)。教政の「教」の字は嘉吉の乱で暗殺された第6代将軍足利義教から1字を賜ったものとみて間違いはないだろう。一方、満直の「満」は第3代将軍足利義満(義教の父)に由来する字であるため、将軍の順序だけで見れば満直が兄で先に元服したものと断定できるが、「満」の字は祖父・満則や父・満政も使用しており、加えて年代的なことを踏まえれば、義満から直接賜ったのではなく、満則・満政・満直と連続して使用している可能性が高く、断定はできない。強いて、父・満政の名前の上の字(1文字目の「満」)を与えられた満直が兄、下の字(2文字目の「政」)を与えられた教政が弟と考えることもできるがこれも明確な証拠はない。〕。嘉吉3年(1443年)6月に管領の畠山持国より赤松家惣領に任命された〔『赤松円心・満祐』吉川弘文館。262頁。〕。しかし播磨は嘉吉の乱で山名宗全の領国となっていたため、その播磨を奪回するため父と共に京都から播磨へ下向した〔『東寺執行日記』・『斎藤基恒日記』。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。264頁。〕。 しかし宗全も但馬に下向して赤松・山名は東播磨で合戦に及んだ。しかし文安2年(1445年)1月20日に山名軍に敗れて父と共に一族の有馬持家を頼って落ち延びた〔『東寺執行日記』では正月20日に播州合戦了んぬとある。かなりの激戦で、文安元年と2年春の年貢は収納できなかったらしい(『広峰神社記録』)。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。265頁。〕。だが持家は丹波守護の細川勝元に大敗。保身のため持家は満政と満直らの殺害を決意し、親子は家臣124名ほどと共に4月24日に暗殺されて晒し首にされた〔『東寺執行日記』では3月24日に殺害され、4月4日条で晒されたとしている。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。265頁。〕。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤松満直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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