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赤松 貞村(あかまつ さだむら、明徳4年(1393年) - 文安4年(1447年)?)は、室町時代の播磨・美作・備前の守護職である赤松氏の一族。伊豆守。 父の赤松満貞(みつさだ)は3代将軍足利義満、満貞の従兄弟にあたる赤松持貞は4代将軍足利義持、子の赤松教貞(のりさだ)は6代将軍足利義教から、それぞれ偏諱を賜っている。 応永34年(1427年)に本家当主の赤松満祐が出奔する事件がおこり、その政治的解決のために当時の赤松春日部家の当主である赤松持貞は自害に追い込まれた。そのあとを継いだのが持貞の従甥にあたる赤松貞村だった。 持貞と同様に将軍の近習となった貞村は、妹が六代将軍足利義教の側室となって男子を出産したことで、義教に重用されるようになっていった〔貞村も妹同様義教に寵愛されていたと『嘉吉記』に記述されているが、実際には貞村は年齢的に義教の男色相手になったとは考えにくいとされている。高坂、201頁〕。それらを背景に「播磨の守護を満祐から貞村に変更する」という応永34年と同じような噂が囁かれたことが嘉吉の乱の発端にの一因になった。 嘉吉元年(1441年)6月24日に将軍義教が西洞院にある赤松邸で殺害された際、貞村も幕臣たちとともに参加していたのだが、満祐の嫡子・赤松教康が足利義教を襲撃すると、その場から逃げ出した。後に幕府軍が満祐を討伐する際、貞村は細川持常が指揮する幕府大手軍に加わったのだが、目ぼしい活躍はなかった。嘉吉元年閏9月には、貞村の所領が闕所とされ、軍功の対象となった〔森、981p〕。『建内記』嘉吉元年九月二十四日条には貞村が落馬あるいは夜討されたという記述があるが、嘉吉3年(1444年)ごろまでは活動していたとされる〔森、979p〕。「赤松氏大系図」では文安4年(1447年)に死亡したとされている。 == 参考文献 == *高坂好 『赤松円心・満祐』 吉川弘文館(1970年) *赤松貞村 - コトバンク、『朝日日本歴史人物事典』榎原雅治執筆項よりの引用。 * 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤松貞村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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