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赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人〔岡村司「文学士赤沼金三郎君伝」『天心遺稿』〕。死去時の地位は第一高等学校講師陸軍歩兵中尉従七位勲六等文学士。 信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。 == 生涯 == === 信濃時代 === 1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた〔。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた〔。 1880年(明治13年)頃、高島小学校で常助教、後に授業生として男女の生徒を教えた〔。この頃チャールズ・ノーセンド、等の教育書に影響を受け、教育の道に進むことを決意した〔。長野県師範学校を志望したが、二次試験に落第した〔。 1881年(明治14年)、諏訪郡神戸小学校に転職し、塩原叢竹に漢学を学んだ〔。『自由燈』の影響で政治学に興味を持ち、1882年(明治15年)、東京専門学校創立に当たって上京し、使丁となることを懇願したが、断られて帰郷した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤沼金三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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