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越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。 == 沿革 == 7世紀末には、越国(高志国)が分割されており、後の越前国、越中国、越後国の前身となる行政区分が置かれていたと考えられている〔『日本書紀』持統天皇6年(695年)9月癸丑条、『続日本紀』文武2年(698年)3月丁卯条〕。大宝元年(701年)8月3日-同2年(702年)10月14日までに、大宝律令が制定され、全国的な施行に至ることから、遅くともこの頃までには、令制国としての越中国が成立していた。 律令施行時の大宝2年(702年)3月17日に、越中国の4郡(頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡)を分ち越後国に属する〔『続日本紀』大宝2年(702年)3月甲申条 〕という記録がある。これが文献上の越中国の初見である。越中国は礪波郡・射水郡・婦負郡・新川郡の4郡で構成される令制国となり、現在の富山県と領域をほぼ同じくする。 養老2年(718年)5月2日に越前国から分立して成立した能登国を天平13年(741年)12月10日に越中国と併合したが、天平宝字元年(757年)に能登国は越中国から再び分立した。 天平18年(746年)に大伴家持が国司として赴任してくると万葉集の数多くの歌が詠まれた。 天平宝字2年(758年)、越中国に駅鈴が初めて設けられた〔『続日本紀』天平宝字2年(758年)9月丁酉条〕。宝亀6年(775年)3月2日、大小目員を設置した。延暦23年(804年)6月10日、上国に定められた〔『日本後紀』延暦23年(804年)6月癸丑条〕。 越中には大きな勢力がなく、豪族や国人と呼ばれる小勢力が散らばっていた。彼らは時勢にしたがい木曾義仲や北条氏の支流で守護名越氏、桃井直常などに協力し活躍した。 室町時代には、桃井氏や斯波氏との抗争を勝ち抜いた畠山氏が守護職を得て守護大名となったが、守護自身は在京して、現地の統治は神保氏といった守護代に任せることが多かった。明応の政変で神保長誠の手によって将軍足利義材が放生津に迎えられ、一大政権を築き放生津幕府と称された。この頃に浄土真宗が広まり一向一揆も多発した。 戦国時代になると、守護畠山氏は神保氏と仲違いをし、代わりに分家の能登畠山氏の力を借りて統治を維持しようとしたが、畿内における内紛が激しくなる中で勢力を失った。そうした中、神保氏を始めとする畠山氏の被官の氏族が台頭する。新川郡の守護代である椎名氏が越後長尾氏(上杉氏)の支援を受け、射水郡・婦負郡の守護代である神保氏と抗争を始め、越中大乱と呼ばれる争いが勃発した。 この抗争は上杉氏側の国人が勝利したが、敗れた神保氏も織田信長の支援を受け、柴田勝家を司令官とする織田氏の北陸侵攻が始まり、やがて越中の上杉氏の勢力は駆逐されていった(魚津城の戦い)。 本能寺の変で信長が横死した後、柴田勝家の支援の下で佐々成政が越中を統一したが、勝家が羽柴秀吉に敗れると、成政は秀吉に帰服せず、秀吉方の隣国の加賀・能登の前田利家と争った。前田氏を支援した羽柴秀吉による富山の役により、成政は敗北。その所領は新川郡のみとなり礪波郡・射水郡・婦負郡は前田氏に与えられた。 江戸時代初期には土方氏の布市藩があったが、能登国内の領地と交換して、越中全域が前田領となった。後に加賀藩の支藩として富山藩(婦負郡と新川郡の一部)が置かれたが、国内の大半は加賀藩領であった。その後は改易されることもなく、廃藩置県を迎えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「越中国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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