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越後高田藩松平(越前)家家臣団 : ミニ英和和英辞書
越後高田藩松平(越前)家家臣団[えちごたかだはんまつだいらえちぜんけかしんだん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

越後 : [えちご]
 【名詞】 1. Echigo 2. old name for Niigata Prefecture 
: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [はん]
  1. (n,n-suf) fiefdom 2. domain (precursor to current prefectures) 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 
家家 : [いえいえ]
 (n) every house or family
家臣 : [かしん]
 【名詞】 1. vassal 2. retainer
: [だん]
 【名詞】 1. body 2. group 3. party 4. company 5. troupe

越後高田藩松平(越前)家家臣団 : ウィキペディア日本語版
越後高田藩松平(越前)家家臣団[えちごたかだはんまつだいらえちぜんけかしんだん]
越後高田藩松平(越前)家家臣団(えちごたかだはんまつだいらえちぜんけかしんだん)は、越後国高田藩主越後中将家松平(越前)光長家中(1624 - 1681)家臣団のうち、越後騒動の首謀者となった主要1,000石以上家臣及び、当主光長の伊予松山配流に随行した主要家臣を挙げる。
== 概要 ==

松平光長は将軍徳川秀忠の孫であり、江戸城中で養育された。
1620年(元和9年)、越前68万石北荘藩主松平忠直は不行跡により隠居・配流となった。幕府は嫡子である光長に一旦相続させたうえで、忠直の弟で越後高田藩主であった松平忠昌を福井へ転封、松平光長は越後高田藩26万石〔越後・信濃の旗頭を命じられ、与力大名として
*越後村上藩堀直寄・在番:堀直吉)10万石
*越後長岡藩牧野忠成)7万4,000石
*越後新発田藩溝口宣直)5万石
*信濃飯山藩佐久間安次)3万石
*信濃松代藩真田信之)10万5,000石
*信濃松本藩松平直政)7万石
*信濃上田藩仙石政俊)6万88石
が付属された。〕へ移封した。旧・忠直の家臣団のうち、幕命により選抜された百余名の家臣、および附家老本多富正は福井藩の付属とされたが、福井藩の巷説を集めた『国事叢記』によると「忠昌の北ノ荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣の内の105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣〔この叢記の記述に関しては、忠昌入部時に他の兄弟(直政、直基直良)もそれぞれに越前国内に藩を成立させたが、それら諸藩に再仕官した家臣らもおり、残りの全てが高田藩に再仕官したのではないという史実に留意。〕は光長に随って越後高田藩臣となった。また、老臣5人のうち、本多飛騨守は大名になり、小栗美作守岡島壱岐守本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守(本多富正)のみ忠昌に出仕した」とされ、幕府の選に漏れ、他藩へ仕官しなかった越前藩士が、高田移封時の家臣団となったと推測される。1681年(天和元年)、越後騒動の罪を問われ改易となった光長は伊予松山藩に預けられ、配所賄料として1万俵が支給された。1687年(貞享4年)光長は老齢であり、光長自身は公儀に対して謀反の行いはなかったとされて赦免され、江戸へ帰還し、合力米3万俵を与えられた。1697年(元禄10年)光長は隠居するが、翌1698年(元禄11年)、養子の松平宣富美作津山藩が与えられ、津山藩が立藩した。高田時代は前述のように越前よりの家臣で構成されるが、改易とともに一部の小栗派以外、大幅にその家臣団は縮小された。津山藩ではこの光長の松山配流時にも随行した家臣を譜代、合力米3万俵時代に召抱えた家臣を古参、宣富の津山立藩以降に召抱えた家臣を新参と称した。また、江戸帰還後に廃嫡となった松平綱国の子孫は永見氏と改姓し、津山藩家老連綿の家系となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「越後高田藩松平(越前)家家臣団」の詳細全文を読む




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