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観世 元雅(かんぜ もとまさ、 応永元年(1394年)、あるいは応永8年(1401年)頃〔没年を40歳弱と見做し1394年生とするのがかつての通説であったが、音阿弥が子のなかった世阿弥の養嗣子として迎えられたと考えられることなどから、音阿弥より元雅のほうが年下と見る説が近年有力となっている(香西精「元雅行年考」、1969年)。〕-永享4年8月1日(1432年8月26日))は室町時代の能作者、猿楽師。通称は十郎。初名は元次とも。法諱は善春。世阿弥の長男とされ、弟〔兄弟の順序については異説がある(表章『観世流史参究』檜書店、67-68頁)〕に『申楽談儀』を著した元能がいる。 == 生涯 == 猿楽を洗練し、能を大成した祖父・観阿弥、父・世阿弥に続く観世座の三代目として生を受ける。世阿弥は前に、甥に当たる三郎元重(後の音阿弥)を養子にしていたらしく、幼少期の元雅はこの義兄とともに、父の指導の下、将来の後継者候補として芸を磨いていたと思われる。 応永25年(1418年)、世阿弥は自著『風姿花伝』の一部である「花伝第七別紙口伝」を「元次」に相伝している。この元次は他に記録に名が見えないため、元雅の前名とするのが一般的であるが〔『日本思想大系 世阿弥 禅竹』岩波書店、頭注〕、元雅の兄とする説、世阿弥の弟である四郎(音阿弥の父)とする説、音阿弥の共演者として記録に名の見える「観世五郎」と同一人物視する説もある。 応永29年(1422年)頃〔能勢朝次『能楽源流考』岩波書店、719頁〕、観世大夫の座を父から譲られたとされる(但し、後世の観世流は元雅を歴代に数えない〔これについては、元雅を三世として音阿弥を四世、以下歴代大夫を一代ずつずらして考えるべきとする説と、観世流の採る現行の表記が正しいとする説がある。後者の根拠として、元雅は座の指導者、また優れた役者に授けられる古くからの「大夫」号は受けていたが、音阿弥以降江戸時代に至るまで続いた「幕府公認の御用役者の長」としての「観世大夫」の地位には就いていなかったという事実が挙げられる(表前掲書、518-522頁)。〕)。もっとも、世阿弥もまだまだ健在であり、若年の元雅はその補佐を受け、また世間でも観世座の中心人物は依然として世阿弥と見做していたらしい〔応永31年に醍醐寺清滝宮の楽頭職に就いたのは隠居のはずの世阿弥であったし、それを伝える『満済准后日記』も世阿弥のことを「観世大夫」と記している(表章前掲書、520頁)〕。確かな演能記録としては、応永34年(1427年)および永享元年(1429年)に興福寺の薪猿楽に参勤、正長元年(1428年)醍醐寺清滝宮の祭礼猿楽、永享元年の室町御所笠懸馬場での猿楽、永享4年の将軍御所での能などへの出演が知られている〔西野春雄、羽田昶編『能・狂言事典』平凡社〕。なお、永享元年の薪猿楽では「放生川」を〔『申楽談儀』第27段〕、同年の笠懸馬場では音阿弥とともに多武峰様立合猿楽で「一谷先陣」を舞っている〔『建内記』〕。 元雅は世阿弥に劣らぬ名人であったが、そのキャリアは、実力に見合う華々しいものではなかった。というのも、世阿弥父子から独立した活動を見せていた音阿弥が、将軍足利義教の寵愛を一身に受けていたためである。音阿弥を偏愛する義教によって、永享元年に既に決まっていた仙洞御所での演能を中止させられるなど、世阿弥・元雅は露骨な圧迫を受けることとなる。元雅はその状況下でも志を失わずに活動を続けたとみられ、大和吉野の天河大弁財天社に奉納した尉面が現存している。しかし苦境から脱することが出来ず、その才能を十分に発揮できないまま、三十代の若さで巡業先の伊勢安濃津で急死した。 死因については、前述の天河社、また伊勢はともに当時南朝の勢力が強かった地であったことから、晩年の彼が南朝側に近かったとし、その結果政治的対立に巻き込まれて暗殺されたとする説もある。いわゆる「上嶋家文書」では「斯波兵衛三郎」によって暗殺されたとしている。 若年ながら世阿弥をして「''子ながらも類なき達人''」「''祖父にも越えたる堪能''」と絶賛され、「''道の秘伝・奥義ことごとく記し伝へつる''」〔以上世阿弥『夢跡一紙』〕「''道の奥義を極め尽くす''」〔世阿弥『却来華』〕最良の後継者であった。遺された作品からも非凡な才能を持っていたことが窺えるだけに〔表章「世阿弥と禅竹の伝書」(『世阿弥 禅竹』解説)〕、三十代半ばという「''盛りの極み''」に死去したことが惜しまれ、彼が長命であったならその後の能はより多様な展開を迎えただろうとさえ言われている〔『能・狂言事典』〕。 一子があり、後に観世十郎大夫を名乗って猿楽師として活躍した。その子も猿楽役者であったらしいが、この元雅の孫を以って世阿弥の直系は絶えたらしい(越智観世を参照)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「観世元雅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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