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趙光義 : ミニ英和和英辞書
趙光義[ぎ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

趙光義 ( リダイレクト:太宗 (宋) ) : ウィキペディア日本語版
太宗 (宋)[たいそう]

太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは(日の下に火)に改めた。
== 概要 ==
後晋天福4年(939年)に浚儀県開封市)の官舎で、趙弘殷の三男として生まれる。子供のころから傑出しており、学問を好んだ。父の弘殷は匡義のために、淮南を征伐した際、州や県を占領しても財貨には一切目もくれず、古書を探して匡義に贈ったという。兄・趙匡胤が後周の将軍であった頃から常に協力し続け、趙普らと主導した陳橋の変の際に匡胤を擁立する時も、中心となって匡胤の説得に当たった。
太祖が即位後、晋王に封じられ、序列は宰相より上に置かれた。太祖が親征を行うと、大内點検(近衛軍の将軍にあたる)や東都(都の開封のこと)留守に任じられるなど、太祖の右腕として重責を担った。太祖が死去してから、当然息子が後を継ぐところを弟の太宗が即位したことには、非常に不可解な点が多く、「千載不決の議」と呼ばれ、太宗による暗殺説も消えなかった。また、後に太祖の長子趙徳昭を自殺させ、太祖の次子の趙徳芳が981年に不可解な死を遂げた後に自らの息子の趙恒を太子としたことは、正統論の厳しい宋においては常に糾弾の声が絶えなかった。
978年には独立勢力であった泉州の節度使陳洪進が領土を納め、呉越の銭俶も両浙の13州を献上し、翌年の979年北漢を滅ぼし、中国の再統一を達成した。その余勢を駆ってから燕雲十六州の回復を狙って親征の軍を起こして進撃するが、高粱河において敗れ、開封に撤退した。また980年にはベトナムの黎桓を討つが、遠征軍は敗退した。
内政面では太祖の路線を踏襲し、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整えることで、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。
997年、崩御した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「太宗 (宋)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Taizong of Song 」があります。




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