翻訳と辞書
Words near each other
・ 趙州
・ 趙州従シン
・ 趙州従諗
・ 趙州橋
・ 趙左
・ 趙巧雲
・ 趙巷
・ 趙巷鎮
・ 趙希
・ 趙席聘
趙帰真
・ 趙常玲
・ 趙幼悟
・ 趙広
・ 趙広来
・ 趙広漢
・ 趙庸
・ 趙廣來
・ 趙延寿
・ 趙廷来


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

趙帰真 : ウィキペディア日本語版
趙帰真[ちょう きしん]
趙帰真(ちょう きしん、? - 846年)は、武宗代の道士。左僕射の李徳裕と共に、会昌の廃仏で武宗に関与した人物である。
== 経歴 ==
841年会昌元年)、かねてからの排仏論者であった武宗は、81名の道士を宮中に召し、金籙斎の道場を建てた。その際、召集された諸道士の筆頭となったのが、趙帰真であった。以後、武宗は、宮中の三殿に九仙玄壇を建てて、そこに臨んで法籙を親授された。当然、その際の導師も、趙帰真であった。
以後、武宗は、趙帰真を身近に置いて、師事するようになった。道士であった趙帰真も、排仏論者であり、帝に仏教の廃毀を上進し、僧侶との帝前での対論を求めた。
844年(会昌4年)、武宗は望仙楼を宮中に建て、そこに道士を召集して道教に関する談論を行なった。それを、諌官が誡めたので、その件で宰相の李徳裕にも諮問した所、李徳裕も趙帰真を遠ざけることを進言した。
翌年、麟徳殿で、僧の知玄法師との対論が実現した。趙帰真は、知玄を論破し得ず、帝を煽動して廃仏に踏み切らせた。会昌の廃仏(845年)である。武宗の崩御の後、宣宗が即位し、復仏を宣言すると、趙帰真は、捕縛されて斬殺された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「趙帰真」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.