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趙廷来[ちょ じょんね]
趙 廷来(チョ・ジョンネ〔、1943年8月17日 - )は、韓国の小説家。大河小説の作家として知られる。幼い頃に経験した麗水・順天事件、朝鮮戦争が、趙の筆に大きな影響を与えたことは間違いない。大長篇『太白山脈』は分断直後からの朝鮮半島史を描ききった大作として文壇で高い評価を得た。 == 略歴 == 1943年8月17日、全羅南道昇州郡(現在の順天市)双岩面仙巌寺に生まれる。父は趙宗玄、母は朴聖純。4男4女の次男である。父は僧侶であり、仙巌寺の副住職を務めていた。趙もまた、幼年期を仙巌寺で暮らす。1947年、保守的な住職と父との間で悶着があり、趙一家は仙巌寺を離れ、順天邑幸洞に引っ越す。1948年、麗水・順天事件が起こる。街には共産派の死体が散らばり、父は社会主義的思想を持っていたため当局に連行された。この事件は幼い趙の記憶に鮮明に残ることになる。父は1950年の冬に無罪放免で釈放されたが、廃人のようになってしまった。 1949年、順天南国民学校に入学するも1950年に朝鮮戦争が勃発し、田舎に疎開する。1951年に家に戻るも1・4後退で再び避難する。通学を再開できたのは1952年からであった。1956年、光州西公立中学校(現:光州第一高等学校)に入学、1959年にはソウルの普成高等学校に進学する。1960年4月19日、四月革命が起こり、授業は中断。この間、アーネスト・ヘミングウェイや、アルベール・カミュ、ギ・ド・モーパッサンなど文学作品に耽溺した。他校生との農村活動を兼ねた文芸活動も行い、詩、小説、童話などを習作し始める。1962年、東国大学校国文科に入学。大学で洪申善、姜熙根らと会う。初めは詩を習作するも小説家になることを志し、1963年に「創作文学会」を結成した。呉永寿を招聘して講義をしてもらったり、また「小説家を大学講師に呼ぶ」ことを要求するデモを起こすなど、活動的な会であったようだ。呉永寿とは師弟の関係になる。また、この頃、金初蕙と出会い、恋愛をする。1966年、陸軍に入隊、KATUSA(米国軍に配属された韓国軍)に配属される。入隊中、1967年1月29日、金初蕙と結婚する。1969年3月に除隊すると、教師の職を求めるが、就職できず、仕事のないまま、習作を続ける。 1970年に、『現代文学』に呉永寿の推薦で短篇「陋名」「」が掲載されることになり、文壇にデビューする。創作活動に没頭する一方、1972年、中京高等学校の教師の職を得る。中京高校は1973年の10月維新の余波で辞めることになったが、韓国文人協会の発行する『月刊文学』の編集の仕事を貰い、執筆活動と平行して仕事をこなす。しかし、編集業に携わる中で政治的な意図を持った非難や誤解を受けることとなり、1976年1月、文人協会を離れる。その後、『小説文芸』の運営を引き受け、8号と9号の発行に携わった。1978年、「民芸社」を設立し、本格的に出版業を始める。しばらく、出版業の仕事のため、創作活動から遠ざかるが、自らの本業は作家であることを見つめなおし、1981年から、創作活動に時間を割くことにする。この年、「(流刑の地)」で現代文学賞を受賞、翌1982年、「 (人間の門)」で大韓民国文学賞を受賞する。1983年から1989年まで、1万6千5百ページに及ぶ長篇「太白山脈」を書き上げ、文壇で絶賛を浴びた。その後も精力的に創作活動を続けている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙廷来」の詳細全文を読む
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