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趙思義の乱(ちょうしぎ(チョ・サイ)のらん)とは、李氏朝鮮建国初期の太宗2年(1402年)に、太祖の継妃だった神徳王后康氏の親戚で、安邊府使の趙思義が太宗に対して起こした反乱である。 ==概要== 李氏朝鮮が建国された当時、太祖の長男、鎮安大君は出奔しており、そのため太祖は正妃の神懿王后韓氏の子ではなく 溺愛する継妃の神徳王后との子である、宜安大君を、太子に冊封した。 それに反発した、太祖の五男の靖安大君(後の太宗)は、太祖7年(1398年)に決起(第一次王子の乱)し、太子や建国功臣の 鄭道伝・沈孝生・南誾等を殺害し、永安大君を、太子とする。 翌月には、永安大君は太祖から譲位され即位する。国の実権を握った靖安大君は、軍制の改革や、王族の私兵の解体に着手する。 それに反感を持った、太祖の四男の懐安大君は、第一次王子の乱の論功行賞で靖安大君に不満を持っていた、朴苞と共に 定宗2年(1400年)に決起(第二次王子の乱)する。 しかし、この反乱は靖安大君に鎮圧され、朴苞は処刑され、懐安大君は流罪となった。 その後、定宗は靖安大君に譲位し、靖安大君が第三代国王・太宗として即位した。 太祖は、一連の王子達の争いに嫌気が差し、咸興に引きこもってしまう。 そうした中、神徳王后の親戚で、安邊府使の趙思義は、神徳王后や宜安大君の恨みを晴らすとして、太宗2年(1402年)に咸鏡道で蜂起した。 最初は、朝廷から派遣された軍を破るなど善戦したが、太宗の腹心であった李叔蕃らの活躍により鎮圧され、趙思義や反乱に加わった 人物は処刑され、乱は平定された。太宗の事を憎んでいた太祖も、この乱を支援したとされる。 しかし、王師であった僧侶の無学大師に説得され、都に戻り太宗と和解している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙思義の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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