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趙憙[ちょう き]
趙 憙(ちょう き、紀元前3年? - 80年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家、武将。字は伯陽。荊州南陽郡宛の人。子は趙代。 == 事跡 ==
=== 年少時代と更始政権での活躍 ===
若くして節操があると評される。従兄が人に殺されて子が無く、当時15歳の趙憙が復仇を志した。そして仇敵たちの居場所を知ると、侠客たちとともにこれを襲撃する。ところが、仇敵たちは皆病に倒れており、反抗する者は無かった。趙憙は、病を機会として復仇を果たすのは仁者の行いではない、と考え、彼らを釈放した上、「病が癒えたら、遠く身を隠すが良い」と述べた。仇敵たちは叩頭して謝したが、回復した後、いずれも自らを縛して趙憙の下に現れた。最初、趙憙は仇敵たちと会おうとしなかったが、後についに彼らを殺している。 更始1年(23年)に更始帝が即位すると、舞陰(南陽郡)の豪族李氏が城に拠って降ろうとせず、柱天将軍李宝を派遣したが、それでも応じなかった。しかし、「宛の趙氏には、趙憙という孤児(原文「孤孫」)がいる。信義に厚いと言われる彼に、願わくば降りたい」と言う。趙憙を引見すると、更始帝は「こんな子供に、果たして遠路の大任が務まるのか?」〔『後漢書』趙憙伝は、この時の趙憙はまだ20歳に満たない、と記述している。しかし、同伝記載の享年に従えば、実際には、趙憙はこの時すでに数え年27歳である。どちらが正しいのかは不明。〕と笑ったが、郎中兼行偏将軍事に任命し、舞陰へ派遣する。すると李氏は降伏し、趙憙はさらに頴川郡へ進撃して、降伏しない者たちを次々と撃破し、汝南郡との境まで平定してから宛に戻ってきた。更始帝は大いに喜び、「卿は名馬だ。これからも努めてくれ」と労った。まもなく、新の大司空王邑、大司徒王尋が南進してきたため、更始帝は趙憙を五威偏将軍に任命し、劉秀(後の光武帝)らに随従させ、昆陽(頴川郡)の戦いに参加させた。趙憙は負傷しながらも、戦功をあげ、中郎将に昇進し、勇功侯に封じられた。 更始3年(25年)、更始政権が敗北すると、趙憙は(恐らくは長安かその周辺で)赤眉軍に包囲されかかり、友人の韓仲伯ら数十人とともに辛うじて武関まで脱出した。丹水(弘農郡、後に南陽郡)まで至ると、更始帝の親族が裸同然の無残な姿で困窮しているところに遭遇する。趙憙は携帯していた衣料や食料を彼らに提供し、故郷まで送り届けた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙憙」の詳細全文を読む
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