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趙秉鈞[ちょう へいきん]
趙 秉鈞(ちょう へいきん)は清末民初の政治家。袁世凱の腹心的存在で、北京政府で国務総理をつとめた。字は智庵。 == 事跡 ==
=== 警察機関の創始者 === 1878年(光緒4年)、左宗棠率いる楚軍に加わり、新疆に赴任した。1883年(光緒9年)、イリで勘画中俄辺界弁事員に任命される。1889年(光緒15年)、典史として直隷省に赴任している。以後各職を歴任して、1899年(光緒25年)に直隷保甲局総弁として巡防営を率いた。翌年の義和団の乱では、義和団の鎮圧に従事し、直隷総督となった李鴻章の下で知州として補用された。 1902年(光緒28年)、趙秉鈞は保定巡警局総弁に任命され、まもなく知府兼塩運使相当官となる。この時、袁世凱の命を受けた趙は、中国に駐在していた日本人警官と協力して近代的な警察制度の樹立に尽力した。趙は、保定に警務学堂を創設し、さらに天津南段巡警局総弁に異動すると、天津にも巡警学堂を設立した。翌年、両学堂を合併して、北洋巡警学堂を新設している。 1905年(光緒31年)、清朝に巡警部が設立されると、袁世凱の推薦により趙秉鈞が巡警部右侍郎に任命された。これにより、趙は巡警部の実権を掌握した。さらに、袁のために巡警部を一種の特務機関として活動させている。1909年(宣統元年)1月に袁が一時失脚すると、まもなく趙も罷免され、再起を図ることになった。1911年(宣統3年)10月の辛亥革命勃発時に袁が内閣を組織すると、趙は民政部大臣に任命された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙秉鈞」の詳細全文を読む
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