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趙襄子 ( リダイレクト:趙無恤 ) : ウィキペディア日本語版 | 趙無恤[ちょう ぶじゅつ] 趙無恤(ちょう ぶじゅつ / ちょう むじゅつ、? - 紀元前425年)は、中国春秋時代の晋の政治家。姓は贏、氏は趙、諱は無恤、諡は襄。趙襄子と呼ばれる。趙鞅(趙簡子)の末子。 == 生涯 ==
=== 嗣子(嫡子)になる === 趙鞅(趙簡子)が当時人相見として高名であった姑布子卿を招いて子供たちを見せた時、姑布子卿は無恤のみが大成すると予言した。しかし、無恤の母は翟族出身で、身分も下卑だった。その上に無恤は末子であったので、この時の趙鞅はこのことを聞き流した。 後日、趙鞅は子供たちを集めて「わしの宝の符を常山の頂に隠してある。見つけたものに褒美をやろう」と言ったが、子供たちは誰一人として見つけることができなかった。 無恤だけが帰ってきて「宝をみつけました」と言った。趙鞅が「見せてみよ」というと無恤は「常山の頂に立つと代を見下ろすことが出来ますが、代は取ることが出来ます」と答えた。そこで趙鞅はついに長子の伯魯を廃して、末子の無恤を立てた。しかし、長兄の伯魯はこれを恨まず、かえって末弟の無恤を温かく見守り、支えた。無恤も幼い時から自分を可愛がってくれた兄をますます敬ったという。しかし間もなく伯魯は病で逝去してしまった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙無恤」の詳細全文を読む
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