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足利 俊綱(あしかが としつな)は平安時代末期の武将。父は散位藤原家綱。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の棟梁。下野国足利荘(現栃木県足利市)を本拠とする。 == 生涯 == 藤姓足利氏は下野国足利荘を本拠として「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称された(『吾妻鏡』養和元年閏2月23日条、9月7日条)。 安楽寿院領足利荘の立券は開発領主である藤姓足利氏と、院北面として中央に人脈を有する源義国一族との連携によるものであり、藤姓足利氏が現地を管理する下司、義国流源氏は上位の預所として利益を分配していたと見られる。俊綱も当初は源氏と協力関係にあり、保元の乱では下野国から八田知家と並んで源義朝配下として参戦している。しかし、新田義重が金剛心院領新田荘の下司に任じられて在地への関与を強めると、藤姓足利氏と義国流は競合することになる。仁安年間(1166年~1169年)、俊綱はある女性を凶害したことで足利荘領主職を得替となり、平重盛が新田義重に足利荘を賜うという事態となった。俊綱の愁訴により足利荘改替は何とか回避されるが、新田氏との対立は決定的となった。 俊綱は権益保持のため、重盛の家人で同じ秀郷流藤原氏の伊藤忠清に接近したと推測される。治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では、俊綱の嫡子・忠綱が忠清の軍に加わり宇治川を先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた。忠綱は勧賞として俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを願い出た。しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった(『源平盛衰記』)。藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。なお、藤姓足利氏は終始平氏政権側だったするのが一般的な解釈であるが、平氏に対する恩賞の不満から一時的に頼朝に帰順していたとする見解もある〔『玉葉』治承4年(1180年)9月11日条に「介の八郎広常、ならびに足利太郎〔故利綱の子と云々〕等も与力し」とあり、『源平盛衰記』では「足利又太郎」が大庭景親の子を斬首している。〕。 寿永2年(1183年)2月、忠綱は志田義広の蜂起に同意して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗北し、上野国山上郷龍奥に籠もった(『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条)。同年9月、頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野国に下った(『吾妻鏡』養和元年9月7日条)。俊綱は追討軍が到着する前に家人であった桐生六郎に裏切られて殺害された(『吾妻鏡』養和元年9月13日条)。頼朝は桐生六郎を「譜第の主人を誅すこと、造意の企て尤も不当なり」として斬首した。俊綱の遺領は没収され、足利荘は足利義兼が一元的に管理することになるが、俊綱の子息兄弟や郎従眷属でも帰順した者には処罰を禁じ、妻子らの本宅や資財も安堵した。藤姓足利氏の嫡流は途絶えるが、一門の多くは御家人として存続し鎌倉政権に組み込まれることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利俊綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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