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足利 頼氏(あしかが よりうじ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の御家人。父は足利泰氏。母は北条時氏の娘〔。初名は足利利氏(としうじ)。 == 生涯 == === 元服と家督相続 === 足利泰氏の三男として生まれるが、母が北条得宗家出身であることから嫡子に指名され、父・泰氏の跡を継いで足利氏の当主となり上総と三河の二ヶ国を領した〔〔田中、2013年、P.138(小谷論文)。〕。『吾妻鏡』における初見は建長4年(1252年)11月11日条の「足利大郎家氏 同三郎利氏」の箇所である。家氏はこれまで『吾妻鏡』に寛元3年(1245年)8月15日条~建長3年(1251年)8月15日条までの7年間、11箇所に亘って「足利三郎家氏」と記されてきた〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.13)。ちなみに、『吾妻鏡人名索引』では「三郎家氏」を"利氏の誤りならむ"としているが、建長4年の段階になっていきなり「三郎」の諱(実名)が変化し、別に全く同じ名を持つ「大郎家氏」が現れるのは不自然であるとしている(紺戸淳論文(同前、p.13))。〕が、前述の記載では家氏の通称が「大郎」(=太郎)で、「三郎」を名乗る人物が利氏(頼氏)に変わっている。これは、「三郎」が兄弟の順序を表す通称ではなく、足利氏嫡流の家督継承者が称する称号であり〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.13)。『系図纂要』には、曽祖父・義兼、祖父・義氏、父・泰氏が代々「三郎」を称していたことが記されている。この頃の足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあり(臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」(田中、2013年、p.67))、子の家時や曾孫の高氏(尊氏)も母の実家が北条氏ではなく上杉氏であって本来は家督継承者ではなかったため、「太郎」を称していた。〕、母の出自の違い(家氏の母は名越朝時の娘)に伴って建長3年(1251年)から同4年(1252年)の間で「三郎」を称する足利氏の嫡子が家氏から利氏(頼氏)へ変化したことを表すものであると考えられている〔。その時期は、『吾妻鏡』で家氏の表記が、建長3年8月15日条で「足利三郎家氏」であったものが、翌建長4年4月1日条では「足利大郎家氏」と変化している〔『吾妻鏡人名索引』。〕ことから、この間に絞り込められる。『吾妻鏡』によれば、この期間内の建長3年12月2日に父の泰氏が出家しており、これを受けて利氏(頼氏)が家督を継承したと考えられ、また「三郎」という通称名を名乗るのは元服の際に行われるため、利氏(頼氏)の元服は建長3年の8月15日から12月2日の間に行われたとみて良いであろう。後述するが、生誕年は仁治元年(1240年)であったとみられ、その場合建長3年当時数え年12歳となり、元服の年齢として妥当なものである〔一般的な元服の年齢については、コトバンク「元服とは 」(外部リンク)等を参照のこと。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利頼氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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