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足利 忠綱(あしかが ただつな)は、平安時代末期の武将。父は足利俊綱。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の嫡流。下野国足利荘(現栃木県足利市)を本拠とする。治承・寿永の乱において、平氏方について戦った猛将。 == 生涯 == 藤姓足利氏は下野国足利荘を本拠として「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称されていた(『吾妻鏡』養和元年閏2月23日条、9月7日条)。『吾妻鏡』によると治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において、小山氏が以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏が受けなかったことを恥辱として平氏方に加わったという。忠綱は17歳であったというが一門を率いて上洛し、平氏の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。宇治川の戦いでは先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた。 忠綱は勧賞として俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを平清盛に願い出た。しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった。巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて嘲笑されたと伝えられる(『源平盛衰記』)。藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。忠綱は恩賞の不満からか東国に戻り、一時的に源頼朝に帰順していた形跡が見受けられる〔『玉葉』治承4年(1180年)9月11日条に「介の八郎広常、ならびに足利太郎〔故利綱の子と云々〕等も与力し」とあり、『源平盛衰記』では「足利又太郎」が大庭景親の子を斬首している。〕。 その後、養和元年(1181年)になると現地で競合する足利義兼・新田義重が頼朝に帰順し、一門からは佐貫広綱が頼朝の御家人となり、佐位七郎弘助・那和太郎は木曾義仲に従って横田河原の戦いに参戦するなど結束が崩れ、藤姓足利氏を取り巻く情勢は厳しいものとなっていった。寿永2年(1183年)2月、忠綱は常陸国の志田義広の蜂起に同意して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗北し、上野国山上郷龍奥に籠もった(『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条)。その後は郎党・桐生六郎のすすめに従い、山陰道を経て西海へ赴いたと『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条にあるが、その後の消息は不明である。9月、頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野国に下った(『吾妻鏡』養和元年9月7日条)。俊綱は追討軍が到着する前に家人であった桐生六郎に裏切られて殺害され、藤姓足利氏の宗家は滅亡した〔なお俊綱の滅亡は志田義広の蜂起と同年に起こったとするのが一般的な解釈であるが、『玉葉』養和元年(1181年)8月12日条に俊綱謀反の記事があること、寿永元年(1182年)が『吾妻鏡』最終所見である和田義茂が、寿永2年(1183年)に追討軍を率いることは不自然であることから、義広蜂起と俊綱滅亡は別個の事件とする見解もある。ただし、野木宮合戦の年次自体も旧説では寿永元年説だったものがその後の研究で寿永2年説が有力になった経緯がある。〕。 『吾妻鏡』は、忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。なお、忠綱は平氏方として西海に赴いたとされるが、「頼朝に背いた先非を悔い」平氏方に加わるというのは腑に落ちない行為であり、汚名返上のために平氏追討軍に参加したとも考えられる。『吾妻鏡』文治元年(1185年)4月15日条は無断任官者を列記した周知の記事であるが、頼朝に「本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼の人かな」と罵倒されている兵衛尉忠綱は境遇が一致しており、足利忠綱の可能性もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利忠綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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