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足利 政氏(あしかが まさうじ)は、戦国時代の武将。2代目古河公方(在職:延徳元年(1489年) - 永正9年(1512年))。父は足利成氏。母は伝心院(簗田満助の養女、満助の兄・簗田直助(なおすけ)の娘)。 == 生涯 == 延徳元年(1489年)に父・成氏から家督を譲られ、古河公方を継承する。父と同様、将軍足利義政より偏諱を賜い政氏と名乗る。長享の乱においては、扇谷上杉家を支持したが、上杉定正の死去により扇谷上杉家が弱体化すると山内上杉家支持に転換した、明応5年(1496年)の武蔵柏原合戦で山内上杉顕定と共に扇谷上杉朝良と戦う。永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いでは伊勢盛時(北条早雲)・今川氏親とも戦っている。 永正2年((1505年)の両上杉氏和解後は弟の顕実を上杉顕定の養子に入れた。永世3年(1506年)、嫡子・高基と対立、一時は和解したが、永正7年(1510年)の顕定敗死後の後継ぎを巡り、再び対立、さらに次男・義明とも対立し、小弓御所として独立されてしまう(永正の乱)。簗田氏(簗田高助ほか)や宇都宮氏に支持された高基との争いに敗れ、古河城を失い、小山氏の下に落ち延びる。 高基と不利な形で和睦することを余儀なくされ、公方の位を譲り、出家して道長(どうちょう)と号し、小山氏の庇護も受けられなくなり上杉朝良を頼って武蔵久喜の館に引退した。政氏はこの館に永安山甘棠院を開山。永正17年(1520年)には古河城を訪れ、高基と面会している。享禄4年(1531年)に久喜で没した。 政氏は太田道灌謀殺後の両上杉氏の対立に際し、父成氏の路線を引き継ぐ事により、関東における武家の棟梁たる地位の維持に努めようとしたが、その路線が裏目に出て、自身が息子達と対立する事態に陥ってしまった。そして、その間に後に古河公方家を没落させる事になる後北条氏が関東に着々と進出してくるのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利政氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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